世界は善に満ちている―トマス・アクィナス哲学講義 ― ⭐️10

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世界は善に満ちている―トマス・アクィナス哲学講義 ―
山本芳久(著)
新潮社 (2021/1/27)

山本芳久 やまもと・よしひさ
1973年、神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。千葉大学文学部准教授、アメリカ・カトリック大学客員研究員などを経て、現職。専門は哲学・倫理学(西洋中世哲学・イスラーム哲学)、キリスト教学。主な著書に『トマス・アクィナスにおける人格の存在論』(知泉書館)、『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会)、『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書、サントリー学芸賞受賞)、『キリスト教講義』(若松英輔との共著、文藝春秋)など。

トマス・アクィナスの『神学大全』の
ごくごく一部ではありますが、
キリスト教の教義にはしばられていない、
アリストテレスの哲学をベースにした考え方の一端を
窺い知ることができました。

議論の構成そのものも、
一方的に言い負かすのではなく、
反論からも良いところを受け取っていく方法は
現代で見習うべき議論の方法だと学びました。

そして、この世界は善に満ちているというのは、
とてもすばらしい見方だと思います。

難解な哲学の言葉をわかりやすく解説している
著者にとても感謝しています。

「希望」の論理学

■トマス・アクィナス

トマスは、人類の歴史のなかでも稀に見る天才の一人で、
膨大な量の著作を残しています。

主著は『神学大全』です。

『神学大全』は、最近解散した創文社という出版社から
日本語訳が刊行されていますが、全四五巻もあります。

一九六〇年から二〇一二年まで、
じつに半世紀もかけて翻訳されました。

これほどに巨大な著作ですが、
それでもトマスの全著作の七分の一程度に過ぎないのです。

トマスが西洋哲学史上の一大巨人とされる理由の一端です。

■トマスの感情論

日本語訳全四五巻のうちの第一〇巻が
感情論の部分の翻訳になっています。

この巻は、五百ページ程度の長さになっています。

トマスの感情論の特徴は、
「感情には明確な論理がある」と考えるところにあります。

一見捉えどころのない、ただの流れにも見える感情に、
明確な構造と論理を見出していくところに、
トマスの感情論の面白さがあるのです。

■「希望」の論理学

トマスは、何かが「希望」の対象になるための
四条件という話をしています。

●「希望」と「恐れ」:「善」と「悪」

トマスによると、何かが希望の対象になるための
第一条件は、「善であること」です。

トマスによると、「善(bonum)」という言葉の意味は、
「道徳的善」に尽きるものではありません。

「喜びを与える」という意味で善いものである「快楽的善」や、
「役に立つ」という意味で善いものである「有用的善」をも
含んだものとして、
トマスは「善」という言葉を使用しているのです。

この「善であること」という第一条件によって、
「希望」という感情は「恐れ」という感情と
区別される、とトマスは述べています。

「希望」の対象となるものは「善」であり、
「恐れ」の対象となるものは「悪」になります。

●「希望」と「喜び」:「未来の善」と「現在の善」

何かが「希望」の対象になるための第二条件は、
「未来のものであること」です。

第二条件によって、「希望」は「喜び」と区別されると
トマスは述べています。

私たちが喜ぶのは、
すでに「善」を手に入れたからです。

●「希望」と「欲望」:「獲得困難なこと」

何かが「希望」の対象になるための第三条件は、
「獲得困難なこと」です。

「獲得困難なこと」という第三条件によって、
「欲望」と区別されます。

ただし、ここで気をつけなければならないのは、
だからといって「欲望」の対象が
「容易に獲得できるもの」となるわけではないと
いうことです。

トマスの感情論を理解するさいに大切なのは、
「困難」だとか「魅力的」だとかいうことを感受する
本人の受けとめ方が重要だという点です。

「大学に合格すること」は、客観的に、
誰にとっても困難なことだと
決まっているわけではありません。

ある人にとっては困難なものとして受けとめられるが、
他の人にとっては困難なものとは受けとめられない、
そういうたぐいのものです。

「欲望」の対象が困難なものだと受けとめられると、
「希望」という感情の出番が来るわけです。

「感情」という日本語に訳している言葉は、
トマスのテクストではラテン語でpassioとなっています。

この言葉は、哲学では「情念」と訳されることが多いですね。

●「希望」と「絶望」:「獲得可能な善」と「獲得不可な善」

何かが「希望」の対象になるための第四条件は、
「獲得可能なものであること」です。

あまりにも困難すぎて獲得することが
完全に不可能だと思われてしまえば、当然ながら、
「希望」という感情は生まれてこないわけです。

この「獲得可能なこと」という第四条件によって、
「絶望」と区別されることになります。

「希望」も「絶望」も、
「善」を対象にしているという点では
変わりがありません。

●「恐れ」と「絶望」

トマスの理論に基づいてより詳しく言うと、
「恐れ」の対象は、「差し迫った未来の困難な悪」です。

「恐れ」と「絶望」は対象を異にした
根本的に異なる感情だということがわかってきます。

「恐れ」について言えば、たとえば、
また大きな余震が来るのではないかというような仕方で、
「差し迫った未来の困難な悪」を
自分は恐れているのだということに気づきます。

他方、「絶望」について言えば、たとえば、
不況という困難のなかで
なんとか立て直そうとしていた事業の再建が、
震災によって不可能になってしまった、つまり、
「事業の再建」という「未来の善」が
もはや達成不可能だと思い、
それに自分が絶望していることに気づきます。

■感情とは

第一条件から第四条件まですべてを合わせると、
「獲得困難だけれども獲得可能な未来の善」に
関わるのが「希望」という感情だということになります。
 
感情とは、単に、私たちの内面に気まぐれに
生まれてくるようなものではありません。

外界の様々な事物や人物や状況が
私たちの心にはたらきかけることによって、
一定の論理に従って生まれてくるものです。

逆に言えば、感情を手がかりにすることによって、
私たちは、自分がどのような状況に囲まれているのかを
ありのままに認識し、一つ一つの状況に対して
適切に対応することができるようになります。

■「気づくこと」の重要性

「希望」という心の動きと「絶望」という心の動きは
こんなに近いのか、

「絶望」という感情と「恐れ」という感情は、
これほどまでに異なる感情だったのか、
というようなことに「気づくこと」が
とても大切だと思います。

世界は善に満ちている

おそらく、この本を見かけなかったら、
『神学大全』もトマス・アクィナスも
知らないまま終わっていたのではないかと
思います。

しかし、この本はとても読み易い。

哲学者と学生の対話という形式で書かれています。

タイトルも良いし、
メルマガで数回に分けてとりあげようと思います。

感情というのは、なかなか論理的に語るのは
難しいと思っていたのですが、
トマス・アクィナスは理論的に区別しています。

「絶望」は「恐れ」の延長線上にあるのではなく、
対象がまったく別のものであるという視点は、
言われてみれば、そのとおりです。

神学について語られている本ですが、
「善」を「道徳的善」に限定していないところも
とても興味深いです。

私たちが日常的につかっている「よい」という言葉に
とても近い定義です。

「あのレストランは、よいレストランだ」
「お金はよいものだ」

こういう「よい」は、道徳的善からは
生まれてこないものです。

そういう意味で、私たちの実際の感情に近いものを
取り扱っているのだと、理解しました。

あなたは、どんな希望をもっていますか。

20221015 世界は善に満ちている_トマス・アクィナス哲学講義(1)vol.3562【最幸の人生の贈り方】

異論を安易に否定したり無視しない「肯定の哲学」

■『神学大全』の最小単位である「項」の構造

『神学大全』の最小単位である「項」は、
どれも同じ構造で書かれているので、
その構造を理解しておくと読みやすくなるのです。
 
 
■■「タイトル」

まず最初に項の「タイトル」が来ます。

これから読む項で言えば、
「愛は感情(passio)であるか」というものですね。

 
■■「異論」

次に「異論」が来ます。

「異論」というのは、
トマス自身の見解とは異なる論のことです。

たいてい三つの「異論」が紹介されます。

それぞれの「異論」のなかでは多くの場合、
伝統的に受け継がれてきた重要な見解が引用されます。

頻繁に引用されるのは、
聖書やアリストテレス(前三八四~三二二)や
アウグスティヌスの言葉です。

もっとも、トマスは
ギリシア語を読むことはできなかったので、
アリストテレスについてはラテン語訳に基づいて
引用しています。

ともあれ、こうした仕方で引用される言葉を
「権威・典拠(auctoritas)」と言います。
 
 
■■「反対異論」

その次に来るのが「反対異論」です。

「反対異論」では、
「異論」と対立する見解が紹介されます。

論理的に考えれば、
「異論」と対立する「反対異論」が
必ずしもトマスの見解に近くなるとは限らないわけですが、
『神学大全』では、
基本的にトマスの見解と近い誰かの見解が紹介されます。

「反対異論」においても、多くの場合、
「権威・典拠」が引用されます。
 
 
■■「主文」

「異論」と「反対異論」を受けて、
次に来るのが「主文」です。

「項」の中心とも言えるこの部分において、
トマス自身の見解がまとめて述べられます。

■■「異論解答」

最後に来るのが「異論解答」です。

「主文」において述べられたことを踏まえると、

最初に挙げられたそれぞれの「異論」に対して
このように答えることができますよ、
ということが示されます。

「異論解答」を読むさいに気をつけなければならないのは、
それぞれの「異論」が全否定されることは
ほとんどないということです。

そうではなく、「異論」の述べていることのなかで、
もっともな部分は肯定され、
間違っている部分は修正され、
一面的な部分は補われ、
全体的によりバランスの取れた見解が提示される
という仕組みになっています。

そのさい、引用された「権威・典拠」自体が
否定されるということはほとんどなく、
「異論」とは異なる解釈が「権威・典拠」に対して
与えられることによって、
「権威・典拠」の述べていることの真理性が
すくい取られることになります。

■「肯定の哲学」

私は、トマスの哲学を「肯定の哲学」という観点から
捉えているのですが、それは、
トマスが述べている思想内容のみに基づいているのではなく、
議論の形式もまた重要な要素になっています。

自分と対立する異論や、
自分よりも前に形成された有力な見解を
安易に否定したり無視したりするのではなく、
それらのいい点から学び、
不十分な点を補いながら
全体的にバランスの取れた見解を柔軟に形成する精神のあり方、
それこそ「肯定の哲学」の中核に位置づけられるものであり、
私たちがトマスから学ぶことができる
大きな利点の一つではないかと思っています。

世界は善に満ちている

トマスの議論の構造そのものが、
分断ではなく、調和をめざす方向になっていることに
とても驚きました。

この議論の方式は、私たちが身につけるべきものの
一つではないでしょうか。

・タイトル(論題)
・異論
・反対異論
・主文
・異論解答

という構造は、とてもいいですね。

異論も伝統的に受け継げられてきた見解を3つ、
反対異論も「権威・典拠」を利用しながら、紹介。

これを踏まえたうえで、自分の主張「主文」があり、
そのあとで、異論について、全否定することなく、
肯定、修正、補足という形で、
解答していきます。

思考の型として、分断を招かないような構造の中で
議論を進めることができるので、
とても安全でなおかつ効果的な方法ではないでしょうか。

世の中にあふれている”議論”が、
いかに不毛で、質が低いかということに
改めて気づくことができました。

私もこういう思考の型が身につけられるよう、
精進していこうと思いました。

あなたは、異論から、どのように学びますか。

20221016 異論を安易に否定したり無視しない「肯定の哲学」_世界は善に満ちている(2)vol.3563【最幸の人生の贈り方】

「愛」はどのように生まれてくるのか

■愛とは

ーーーーーーー
欲求されうるもの(appetibile)が、
欲求能力(appetitus)に、まず自らへの適合性──
欲求されうるものが気に入ること(complacentia)──
を与えるのであり、
そこから欲求されうるものへの運動が続くのである。
『神学大全』
ーーーーーーー

つまり、魅力的なものが、誰かの心にはたらきかけてくる。

そして、はたらきかけられたその誰かの心が、
その魅力的なものを気に入る、
という非常にシンプルな関係が語られているのが
このテクストなのです。

ーーーーーーー
欲求されうるものによる欲求能力の第一の変化が
愛と呼ばれる。

愛とは、欲求されうるものが気に入ることに
ほかならないのである。

そして、この気に入ることから、
欲求されうるものへの運動が続いて生じる。

これが欲望である。

そして最後に静止であり、これが喜びである。
『神学大全』
ーーーーーーー

■愛は「受動的」な仕方で生まれる

「感情」のことをラテン語でpassioと言いますが、
passioは「受動」とも訳すことができるような
意味の広がりを持った言葉です。

英語でpassionと言うと「熱情」と訳されるように
強い情念のことを意味し、
passiveと言えば「受動的」という意味です。

感情は受動的な仕方で生まれてくるものだという洞察が、
この単語自体のうちに含まれていると
言うことができます。

■「欲望」と「欲求能力」

人間の精神は、様々なことを為す力を有していますが、
それは「把捉力」と「欲求力」に大別されます。

「把捉力」とは、要するに物事を捉える力のことで、
「認識力」と言っても構いません。

そして、「把捉力」は、
「理性」と「感覚」とに分けられます。

「理性」は人間固有のもので、
知的に世界を認識する能力です。

それに対して、「感覚」は、
人間が他の動物と共有している能力で、
五感に基づいて世界を捉えるものですね。

他方、「欲求力」とは、文字通り、欲求する力のことです。

「欲求力」も
「理性的欲求能力」と「感覚的欲求能力」に分けられます。

「理性的欲求能力」は「理性」を有する人間に固有の欲求です。

真理を認識したいとか、
社会に正義を実現したいというような欲求のことです。

「理性的欲求能力」は、「意志」とも呼ばれます。

他方、「感覚的欲求能力」は、五感に基づいた欲求能力で、
人間だけではなく、他の諸動物も有しています。

そして、トマスによると、
この「感覚的欲求能力」の運動が「感情(passio)」に
ほかならないのです。

欲望」というのは、たとえば、
「机の上に置いてある美味しそうなアイスを食べたい」とか
「手触りのいい毛布に触れてみたい」とか、
そういう心の動きですね。

でも、こういう一つ一つの心の動きというのは、
生まれては消えていくものですね。

それは、「恐れ」や「大胆」といった
他の心の動きについても同様です。

他方、「欲求能力」というのは、
そうした心の動きが生まれてくる根っこにあって、
人間が人間である限り存在し続けるものなのです。

■愛の二面性

「愛」は、「欲求されうるもの」のはたらきかけを
被ることによって、受動的な仕方で発生するものですね。

世界は善に満ちている
「愛」の成立構造 出典:『世界は善に満ちている

それを表しているのが上の矢印です。

他方、下の矢印に関して言うと、
「欲望」を抱いて「欲求されうるもの」を獲得しようと
能動的に頑張るわけですね。

そして、そのいろいろと頑張る原動力は、
「愛」のうちにあるわけです。

つまり、「愛」は、受動的に生まれながら
能動的な行為の原動力になる、
という非常にダイナミックな性格を有しているのです。

私たちは、「欲求されうるもの」からのはたらきかけを
「受動」しうるからこそ──
もう少し自然な言い方で言うならば「受容」しうるからこそ──
能動的に活動して魅力的なものを
獲得していくこともできるわけです。

受動すること、この世界のなかにある
魅力的なものの美点によって心を打たれること、
そういう意味での受動性・受容性は、
非難されるべきものではなく、むしろ、
真に充実した人生を送っていくための前提条件とも
言えるでしょう。

世界は善に満ちている

愛とは受動的な形で始まるけれど、
欲求能力によって、能動的行為になり、
それがまた、循環していくというのは、
とても興味深い捉え方です。

「愛」の反対は、「無関心」ですから、
まずは、魅力的なものに感動させられるということが
大切になります。

赤ちゃんを見てかわいいと思う。
子犬を見てかわいいと思う。
料理をおいしいと思う。

こういうふうに並べてみると、
お金そのもので、わくわくする、
というのは、なんか並列に並ばないような気もしますが、
いかがでしょう。

結局のところ、お金で得られるもののほうが
大切なのかしら?

いやいや、通帳の残高や株価があがっただけでも
いいのか?

もう少し、分けて考えてもよさそうですね。

あるいは、想像の産物として、
神、お金、科学、、、
とすると、まあ、それぞれの愛があってもいいのか。。。

これらについての愛は、もう少し、
自分自身でも考えてみたいです。

私の場合は、「自然」が、この並びにはいるのかもしれません。

となると、「自然」という漠然とした概念には
愛はないですね。

太陽のあたたかさ、
風のきもちよさ、
鳥の鳴き声、
花の美しさ、
海の波の音、
珊瑚礁に集まる魚たち、、、

そういう具体的な一つ一つに心を動かされることが
「愛」の始まりになります。

となると、お金の場合は???

どういうときに、心を動かされるのでしょう?

あなたは、「愛」を感じるのは、どんなときですか。

20221017 「愛」はどのように生まれてくるか_世界は善に満ちている(3)vol.3564【最幸の人生の贈り方】

人間の十一個の基本感情とは

■十一個の基本感情

トマスは、人間には十一個の基本感情があると考えました。

この十一個の基本感情を、
彼は「欲望的な感情」と「気概的な感情」とに
大別しています。

「気概的な感情」は、善の獲得または悪の回避に
「困難」が伴う場面で発現してくる感情です。

それに対して、「欲望的な感情」は、
「困難」が伴うか否かは関係なく、
とにかく魅力的なものや状況へと接近する、
あるいは有害なものや状況から遠ざかろうとする
心の動きです。

魅力的なものと関わりたい、
嫌なものと関わりたくないという
人間の心の最も基本的で自然な運動によって
生まれてくるのが「欲望的な感情」です。

それに対して、その自然な運動の達成を妨げる
「困難」との出会いによって生まれてくるのが
「気概的な感情」です。

■「欲望的な感情」

「欲望的な感情」は
「愛」「憎しみ」「欲望」「忌避」「喜び」「悲しみ」
の六種類があります。

善を対象にしているか
悪を対象にしているかという
対象の善悪に関わる観点と、
「現在」の出来事を対象にしているのか
「未来」の出来事を対象にしているのかという
時間軸による区別を組み合わせることによって
六つの感情が析出されてくるのです。

   善   悪
現在 喜び 悲しみ
未来 欲望 忌避
双方 愛  憎しみ

■「愛」と「欲望」の違い

日本語で「愛」と言うと、
恋愛とか親子の愛とか、
かなり限定された文脈で使われるという
イメージがあります。

でも、トマスにおける「愛(amor)」という言葉は、
「筆箱への愛」「スマホへの愛」「ポカリスエット愛」など
こういった対象についても使われる
極めて汎用性のある言葉なのです。

日本語で言えば、「好き」というぐらいの意味だと
考えておいたほうがいいかもしれません。

「欲望」というのは、
魅力的な対象へと向かっていく心の動きのことです。

何かを手に入れようとする心の運動と
言ってもいいですね。

なぜそういう「欲望」を抱いているのかと言えば、
まだその「欲望」が満たされていないからです。

その意味において、「欲望」とは、
時間軸で言えば「未来」のものに関わる心の動きです。

そして、なぜそのものを欲望するのかと言えば、
それが何らかの意味で
善いもの、魅力的なものだからです。

そして、のどが渇いているときに、
好きなポカリスエットを充分に飲むことができたら、
「喜び」という感情を抱く。

「喜び」の対象が「現在の善」だというのは
そういう意味です。

「欲望」がおさまっても、
「欲望」の根にある「愛」は消滅しないのです。

「ポカリスエットへの愛」は、
「ポカリスエットへの欲望」の根底にあって、
その欲望の生成と消滅を貫いて
持続し続けているわけです。

■「憎しみ」「忌避」「悲しみ」

「悪」に関わる一連の感情は、
何らかのものや人や事態などが嫌いなので、
それを避けたいと思っていたのに、
関わらなければならなくなってしまったり、
その事態に巻き込まれてしまったりして、
悲しくなるという一連の流れを
持ったものになっています。

「愛」と同じように、「憎しみ」という日本語は、
かなり強い心の動きという印象があります。

「憎しみ」というのは、嚙み砕いて言えば、
「愛」が「好き」ということであったように、
「嫌い」と
いうことなのです。

「ニンジンが嫌い」「雨が嫌い」「同級生が嫌い」
ということです。

「忌避」と訳しているfugaというラテン語は
「回避」と訳したほうがわかりやすいかもしれません。

「回避」は「未来の悪」に関わる感情です。

というのも、私たちが「悪」を「回避」しようとするのが
なぜかと言うと、
それはまだ「回避」できる可能性があるからです。

客観的にはどうであれ、少なくとも本人はまだ
その事態から逃れることが可能だと考えている。

■善い憎しみ

善い憎しみなんてあるのですか。

たとえば、「不正を憎む」というのは、
典型的な例になります。

そして、「不正を憎む」場合であっても、
あまりにも憎みすぎて、心が憎しみで一杯になり、
精神の平衡が失われてしまうようなことがあったりすれば、
善い憎しみとは言えないことになります。

この場合、
憎しみの対象が「然るべき対象」でないというより、
度合いが「然るべき程度」に保たれていないという点が
問題なのです。

世界は善に満ちている

十一個の基本感情とは、
愛、憎しみ、欲望、忌避、喜び、悲しみ、
希望、絶望、大胆、恐れ、怒り
のことです。

そしてこれを分類しています。

「欲望的な感情」
・対象が困難なものであるか否かに関わらない
・愛、憎しみ、欲望、忌避、喜び、悲しみ

   善   悪
現在 喜び 悲しみ
未来 欲望 忌避
双方 愛  憎しみ

「気概的な感情」
・困難なものを対象とする
・希望、絶望、大胆、恐れ、怒り

感情を分類することで、
自分の感情も客観的に見られるようになりますね。

愛と憎しみは、日本語では、
好きと嫌いのほうが近いということでした。

対象物に向かっていきたいのか、
避けたいのかという方向性を示していると
考えたほうがよいのかもしれません。

無関心というのは、
この方向性をもっていないので、
感情の対比となる、無感情につながるでしょうか。

改めて、トマス・アクィナスについて、調べてみると、
1225年頃 – 1274年3月7日に生存していた
シチリア国生まれのイタリアの神学者です。

最大の業績は、
キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を
統合した総合的な体系を構築したことと言われています。

時代背景としては、
ギリシア哲学がアラブ世界に残っていましたが、
十字軍をきっかけに、アラブ世界から
ギリシア哲学の伝統の流入が止まらなくなったと
いうことのようです。

もともとアリストテレスがとても広範な範囲について
著書を残しているので、
それに対して注釈をつけるということは、
とても広範な範囲を取り扱うことになります。

アリストテレスの生涯が62年、
トマス・アクィナスの生涯が49年、
この生涯で、世界全てを論じたのですから、
いずれもすごいことです。

あなたが、「憎しみ」(きらい)を感じるのは、どんなものですか。

20221018 人間の十一個の基本感情とは_世界は善に満ちている(4)vol.3565【最幸の人生の贈り方】

希望・絶望・大胆・恐れ・怒り

■気概的な感情

気概的な感情は、困難があるときに出てくる感情です。

困難があるときには、どうしても人間の心は
強く揺り動かされやすくなります。

ーーーーーーー
   未来の困難な善 未来の困難な悪
接近   希望      大胆
後退   絶望      恐れ
「怒り」は、すでに現在のものとなっている「困難な悪」に関わる。
ーーーーーーー

■困難を伴わない悪

君に何か嫌いな匂いがあるとしましょう。

そして、道を歩いていたら、
ふと前からその嫌いな匂いが
ただよってきたとします。

そしたら、君はその匂いを回避しようとして、
回り道をしたりするわけですね。

この事例で考えてみて、その「嫌いな匂い」は
君にとって「悪」なわけですが、
「困難」ということは特にないです。

容易に避けることができるものも多いし、
実際に普段はなるべく避けて過ごしているわけです。

■容易な善

トマス自身は「容易な善」という言い方はしませんが、
この世界はそういう善に満ち溢れているとすら
言えるかもしれません。

ここに「椅子」という「善」があり、
「机」という「善」があり、
「蛍光灯」という「善」があり、
また、「コピー用紙」という「善」があります。

価値のあるものはすべて「善」と言えるわけです。

私たちの日常生活は、
実に多くの「善」に支えられることによって
初めて可能になっているのです。

しかも、そのうちの多くのものは、
特に入手が困難であるわけではない
「容易な善」なのです。

■困難な善

誰がいつどういう状況に
置かれているかということによって、
何が「困難な善」かということは
変わってくるのです。

たとえば、「水」は、
私たちの日常生活が成り立つために不可欠な「善」ですね。

大災害が起きたり、戦争が起きたり、
疫病が蔓延したりして、
水道というインフラが破壊されてしまったら、
水は「困難な善」になるわけです。

■「希望」と「絶望」

何かが希望の対象になるための四条件は、
「善であること」
「未来のものであること」
「獲得困難なものであること」
「獲得可能なものであること」
でした。

ーーーーーーー
   未来の困難な善 未来の困難な悪
接近   希望      大胆
後退   絶望      恐れ
「怒り」は、すでに現在のものとなっている「困難な悪」に関わる。
ーーーーーーー

いま見ている表では、
その第一条件、第二条件、第三条件が一つにまとめられて、
「未来の困難な善」となっています。

■「大胆」と「恐れ」

「希望と絶望」が
「未来の困難な善」に関わる感情であるのに対し、
「大胆と恐れ」は
「未来の困難な悪」に関わる感情です。

そして、「未来の困難な悪」に接近するか後退するかによって、
「大胆」と「恐れ」が分けられるのです。

「差し迫った未来の困難な悪」のみが、
「恐れ」や「大胆」という感情を呼び起こすのです。

「大胆」がアクセルで「恐れ」がブレーキです。

「恐れ」と「大胆」という相反する方向性を持った
二つの感情を上手にコントロールできる力こそ、
「勇気」という「徳」にほかならないのです。

■「徳」とは何か

「徳」と訳している単語は、ラテン語でvirtusと言います。

英語のvirtueの語源に当たる言葉ですね。

この言葉は、「徳」と訳すこともできますが、
「力」と訳すこともできます。

内に漲っている力という意味なのです。

古代ギリシアの哲学が受け継がれていくなかで、
「枢要徳」と呼ばれる四つの徳が、
最も重要な徳としてクローズアップされてきます。

「賢慮」「正義」「勇気」「節制」の四つです。

・賢慮:一つ一つの状況を的確に判断する「力」

・正義:他者や共同体に適切に関わる「力」

・勇気:困難な悪に立ち向かう「力」

・節制:欲望をコントロールする「力」

■「節制」と「抑制」の違い

「節制ある人」と「抑制ある人」との相違は、一言で言うと、
「抑制ある人」は、
いやいやながら欲望を我慢して押さえつけているのに対して、
「節制ある人」は、
節制ある在り方をしていることに喜びを感じている
という点にあります。

世界は善に満ちている
「節制」「抑制」「放埒」 出典:『世界は善に満ちている

■節制することの喜び

「節制」という「徳」を身につけると、
「喜び」という感情を感じるようになると言うのです。

この点も、「技術」と「徳」の大きな共通点なのですが、
何かの「徳」や「技術」を身につけたことの徴は、
その「徳」や「技術」に基づいた行為を為すことに
喜びを感じるようになるということです。

■「抑制ある人」と「抑制のない人」

「抑制ある人」と「抑制のない人」には共通点があります。

どちらも、「理性」と「欲望」との葛藤があるという点です。

そのうえで、
「理性」が「欲望」に打ち勝つのが「抑制ある人」で、
「理性」が「欲望」に負けてしまうのが
「抑制のない人」ということになります。

■怒り

怒りは、他の四つの「気概的な感情」とは違う
位置づけになっているのです。

怒りは、「すでに現在のものとなっている困難な悪」
を対象とする感情です。

たとえば、外国を旅行して楽しんでいたのに、
突然暴漢に襲われて金品を奪われそうになっているという状況を
思い浮かべてください。

「これから襲ってきそうだ」という
差し迫った未来の出来事ではなく、
もうすでに犯罪に巻き込まれているわけですから、
もはや「忌避・回避」はできません。

とれる選択肢は二つだけです。

一つは、やられるがままになって「悪」を甘受する。

そのときには「悲しみ」が生まれます。

もう一つは、自らを傷つけようとする「悪」に立ち向かう。

この、現前する困難な悪に対して
立ち向かおうとする心の動きが「怒り」です。

「怒り」が理性によって節度づけられていれば、
むしろ困難な状況を脱するために有用な感情と
言えるでしょう。

世界は善に満ちている

「すでに現在のものとなっている困難な善」というのは
存在しないので、「怒り」と対立する感情は
存在しないということです。

「怒り」を理性によって節度するのは、
なかなか困難なことでもあります。

だから、アンガーマネジメントという方法が
教えられているのでしょうし、
そもそも「怒らない」ように、
諭されることも多いでしょう。

とはいえ、
「すでに現在のものとなっている困難な悪」に
立ち向かうために必要な感情と定義するならば、
うまく取り扱う方法を身につけるのが
よいかもしれません。

とはいえ、怒りは自分自身を傷つけてしまうことも多いので、
ここぞというときのみ、発揮するべき感情かもしれません。

外国語での言葉の定義や使用範囲と
日本語での言葉の定義や使用範囲は、
同じではないので、完全に日本語で理解するのは、
なかなか難しいことではあります。

「徳」と訳されるvirtusという言葉には、
力という意味が含まれているのですね。

「賢慮」「正義」「勇気」「節制」は、
それぞれ、「力」と理解したほうが、
確かに理解しやすくなります。

これらの「徳」「力」は、
習慣で身につけることができ、
それが人格につながるというのは、
納得できます。

 
理性と欲望で、葛藤しているかどうかというのは
重要な判断基準だと思いました。

何かを選択したときに、
喜んで選択したのか、
いやいやながら選択したのかは、
意識しておくべきポイントかと考えます。

あなたが、いやいやながらしていることは、ありますか。

20221019 希望・絶望・大胆・恐れ・怒り_世界は善に満ちている(5)vol.3566【最幸の人生の贈り方】

「愛」と「憎しみ」

■「愛」があるから「憎しみ」が生まれる

私たちは、たいていの場合、「愛」と「憎しみ」を、
同等の力を持って相対立する感情だと捉えていると
思いますが、いかがでしょうか。

ところが、トマスは、「愛」のほうが「憎しみ」よりも
圧倒的に優位にあると考えます。

たとえば、私の友達のAさんを執拗にいじめている
Bさんがいるとしましょう。

私の心には、Bさんに対する「憎しみ」が
生まれてきます。

その「憎しみ」は、Aさんに対する「愛」があるからこそ
生まれてくるものですね。

そして、Aさんに対する「愛」が強ければ強いほど、
Bさんに対する「憎しみ」も強くなります。

ですが、逆は成り立ちません。

■「憎しみ」の根底にある「愛」

私たちは、ときに、誰かに対して強い「憎しみ」を
抱くことがあります。

それは、とても苦しいことです。

場合によっては、「憎しみ」を抱く相手が
同時に何人もいたりすることもあります。

また、自分自身が「憎しみ」の対象になることもあります。

そういうとき、私たちは、世界は「憎しみ」に
充ち満ちていると感じて、暗い気持ちになります。

ですが、このようなときに、トマスの理論を思い起こすと、
暗い気持ち一辺倒になってしまうところに、
ささやかながらも、一つの歯止めを獲得することができます。

「憎しみ」が生まれてくるさいには、
必ず、その前提として「愛」があるわけですから、
いくら「憎しみ」一色になっているように見えるときでさえも、
その根底には「愛」があるという事実が帰結するからです。

■「憎しみ」を「嫌うこと」と広く理解する

「憎しみ」と訳されているodiumという言葉は、
「嫌うこと」「嫌い」「嫌がること」というように訳すこともでき、
日本語の「憎しみ」よりも意味の広がりを持っています。

トマスも、そうしたかなり広い意味で
この言葉を使っているのです。

そのように広く理解すると、
嫌いな人や物ばかりに囲まれている、
あるいは嫌なことばかりが続いているように思えるときにも、
実はその感情の基となる好きな人や物、
あるいは好きなことにも囲まれていると
気づくことができるということですね。

それは、たしかに救いになるかもしれません。

■「共鳴」と「不共鳴」

「愛」と「憎しみ」について述べているところでは、
「共鳴」という言葉を使って説明しています。

「共鳴」と訳されているのは、
consonantiaというラテン語です。

「共に」を意味するconという接頭辞に、
「鳴る」「響く」「鳴り響く」を意味するsonare
が結びついたconsonareという動詞があり、
それが名詞化されたのがconsonantiaです。

consonareは、「共鳴する」「反響する」「響きわたる」
「調和する」「協和音をつくる」などと訳すことができます。

何らかの事物が自分とピッタリだ、調和する、
いい感じの関係性を築き上げることができるような気がする、
ということですね。

魅力的な対象によって「変化」させられるとか、
魅力的な対象を「気に入る」とかいう表現では感じ取りにくい、
心が躍るような感じがします。

それに対して、「憎しみ」の場合には、
「不共鳴(dissonantia)」があるとトマスは述べています。

何らかの事物と自分がどうもしっくりこない、
違和感がある、不調和が感じられる、
いい関係性が形成できそうにない、というような感じです。

ーーーーーーーーー
愛は、愛する者の愛されるものに対する
何らかの適合(convenientia)のうちに存するが、
それに対して、憎しみは、
何らかの背馳(repugnantia)または不共鳴(dissonantia)のうちに存する。

ところで、何事においても、
そのものに適合するもののことを、
そのものに背馳するものよりも先に考察しなくてはならない。

なぜなら、あるものが他のものに対して背馳的であるのは、
適合するものに対して
破壊的であったり妨害的であったりすることによるからである。

それゆえ、必然的に、愛は憎しみより先であり、
愛されている適合的なものに対立することによらずには、
何ものも憎まれることはない。

こうして、およそ憎しみは愛によって引き起こされる。
『神学大全』第二部の第一部第二九問題「憎しみについて」の第二項
ーーーーーーーーー

世界は善に満ちている
「憎しみ」の根底にある「愛」 
出典:『世界は善に満ちている

何か「嫌なこと」があるときは、
その根底に「愛」があるからだという
世界の捉え方は、著者が言うように、
救いがある捉え方だと思います。

「愛」があるのが習慣になっているから、
当たり前に「愛」があるから、
普段は大きく意識することはないけれど、
「憎しみ」「嫌いなこと」は、
「愛」に対しての変化だから、
より気づきやすいということです。

しかし、より気づきやすいということが、
量が多いということを示すのではなく、
大きく心を動かすものが、
量が多いということを示すということです。

だから、憎しみを多く生むほど、
根底にある「愛」は、より大きいということになります。

とてもわかりやすい論理だし、
何よりも優しい考え方だと思います。

私たちは、怪我や病気になって初めて、
痛さや辛さに気づくのですが、
それは、普段、何も言わずに動いている内臓や
免疫システム、皮膚や神経、骨、筋肉などが
働いているおかげです。

この何も言わなくても動いているものが
愛にあたるのだと思います。

とてもすばらしい世界観だと感じます。

あなたが嫌いなものは、何への愛から生まれているものですか。

20221020 「愛」と「憎しみ」_世界は善に満ちている(6)vol.3567【最幸の人生の贈り方】

心の自己回復力「喜び」と「悲しみ」

■「悲しみ」の涙と自己回復力

「悲しみ」を抱いているときに、涙を流すと、
なぜか心が軽くなることがありますね。

「苦しみまたは悲しみは泣くことによって和らげられるか」
という項でトマスが問題にしているのは、
多くの人が経験するこのような事態が
なぜ生じるのかという理由についてなのです。

トマスによると、泣くことによって
悲しみが和らげられることには二つの理由があります。

涙と嘆きは、その本性上、悲しみを和らげる。

このことは、二つの理由に基づいている。

第一に、内に閉ざされた有害なもの(傷つけるもの)は、
より多く傷つけるからである。

というのも、その有害なものに関する魂の志向が
より強められるからである。

だが、その有害なものが外へと発散されるときには、
魂の志向は何らかの仕方で外へと分けられ、
その結果、内的な苦しみは弱められるのである。

だからこそ、悲しみのうちにいる人が、
泣くことによってか、嘆きによってか、
または話をすることによってか、
自らの悲しみを外に表現すると、
悲しみは和らげられるのである。

第二には、人間がそのうちに置かれているところの
状態にふさわしい(適合した)はたらきは、
その人間にとって喜ばしいものだからである。

しかるに泣くことや嘆くことは
悲しんでいる人や苦しんでいる人に
ふさわしいはたらきである。

それゆえ、その人にとって喜ばしいものとなる。

したがって、およそ喜びは悲しみや苦しみを
いくぶん和らげるのだから、
泣くことや嘆くことによって悲しみは和らげられる。

「悪」に巻き込まれ、
あまりに大きなショックを受けてしまうと、
心が固まってしまい、
普段の心の自然な動きができなくなってしまいます。

悲しいことがあっても、
泣くこともできなくなってしまうわけです。

そういう人が、ある程度の時間が経ったり、
人の温かい心に触れたりして、
泣くことができるようになると、
不思議なことに、そこにある種の心地よさが感じられる。

「悲しいから泣く」という自然な心の動きが
できていること自体が、
「悲しみ」に対する一種の癒やし、
「悲しみ」の和らぎを与えていくのです。

つまり、「悲しみ」を真に悲しむことができれば、
その自然な心の動きそれ自体のなかに、
「悲しみ」が自ずと和らぎ癒やされていくというはたらきが
含まれている。

人間の心には、このような自然な自己回復力が
含まれているのです。

■「喜び」と笑い

「喜び」を感じたときの自然な反応は、
「笑う」ことです。

そして、「笑う」ことによって、
「喜び」は抑制されるどころか、
より増幅します。

ですので、肯定的な感情である「喜び」の場合にも、
否定的な感情である「悲しみ」の場合にも、
生まれてくる感情をありのままに受けとめて
自然な反応をすると、
自ずと心がより肯定的な方向に向かうように
なっているのです。

これを、人間の心の持っている「根源的な肯定性」と
私は名づけています。

世界は善に満ちている

父が亡くなった時を思い出しました。

長女の私がしっかりしなきゃ、と思って、
葬式の時は、涙が出なかったと思います。

それより亡くなった直後は、
いろいろな人に聞かされた、
父の姿に驚かされることばかりでした。

自分がいかに父を知らなかったかということを
知ったのです。

2年くらいたって、何かの機会のときに、
「そういえば、私は父の死を悲しんでいなかったなあ」
と思ったとき、涙がぽろぽろこぼれてきました。

自分では悲しみを閉じ込めていることに
あまり気がつかないということに
その時、初めて気がついたのです。

いろいろな感情を押し込めてしまうことは、
誰でもやってしまうのではないでしょうか。

悲しみを軽減するためには、涙を流したり、
嘆いたり、話をすることが
とても大切なようです。

反対に、笑いは喜びを増幅させるということ。

それだけでなく、
笑いが喜びや感謝を生み出すこともありますね。

「笑い」もとても大切だと思います。

もう一つの議論、
「悪は、善の観点のもとにでなければ愛されることはない。」
というのもとても興味深いです。

私たちは、良かれと思ってやったことが、
気づかずに悪い結果を招いてしまう経験を
たくさん持っていますが、

どんな悪への愛も、もともとは何かの善に対する愛から
生まれてきたと考えれば、
もっと寛容になれるのではないかと思います。

あなたが、最近、涙をこぼしたのは、どんなときですか。

20221021 心の自己回復力「喜び」と「悲しみ」_世界は善に満ちている(7)vol.3568【最幸の人生の贈り方】

「愛」と「喜び」

■「喜び」

前回は「悲しみ」を中心に取り上げましたが、
それと対立する感情である「喜び」について
考えてみましょう。

以前挙げた例を思い出してみましょうか。

誰かと結婚して「喜び」を感じるのは、
その人を愛しているからですね。

しかし、いろいろなことがあって、
結婚式を挙げるときにはもうすでに
その人に対する「愛」が冷めてしまっているとしたら、
無事に結婚したとしても、
さほど「喜び」は感じないという話をしたと
思います。

一方で、結婚相手に対する「愛」が冷めていたり、
もともとさほど愛していなかったりしても、
結婚して「喜び」を感じるという事例は
いくらでも考えてみることができますね。

たとえば、愛してはいないが
収入のよい相手と結婚することができて
「喜び」を感じるとか、
「結婚できない人」と思われていたのに、
無事に結婚することができて、
相手に対する愛の有無にかかわらず、
「喜び」を感じるとか。

それでも、それらの「喜び」の根底には
「愛」があるというのは、もうわかりますね。

■「愛」とは

日本語で「愛」と言うと、
どうしても「恋愛」のような特定の愛を
イメージしがちですし、
また、哲学の授業で「愛」の話をすると、
「隣人を愛しなさい」といった道徳的なメッセージだと
受けとめられがちです。

ですが、トマスにおける「愛」とは
そのようなものではありません。

少なくともそのようなものに尽きるものではないのです。

人間が何らかの感情を抱き、何らかの行動をする、
その原点にあるのが「愛」という感情です。

■「愛」と「喜び」のつながり

「愛」と「喜び」のあいだには、
愛する対象を獲得することができたら
「喜び」が生まれてくるというだけではなく、
もっと深いつながりがあるのです。

愛する対象の獲得によってはじめて
「喜び」が生まれてくるのではなく、
愛することそのもののうちに
「喜び」があるのだという観点が、
トマスのなかにはあるのです。

■二つの一致

ーーーーーーーーー
愛する者の愛されるものに対する一致は二通りである。

一つは実在的なものであり、
すなわち、愛されるものが愛する者に、
現在的な仕方で現存している場合である。

もう一つは、心の在り方に基づいたものである。
〔……〕

愛は、第一の一致を、
作用因的な仕方で(effective)作り出す。

なぜならば、愛は、
愛されているものの現存(praesentia)を、
自らにふさわしく(conveniens)、
そして自らに属しているものとして
欲求し尋ね求めることへと
〔人を〕動かすからである。

他方、愛は、第二の一致を、
形相因的な仕方で(formaliter)作り出す。

というのも、愛そのものが
そうした「一致(unio)」であり
「絆(nexus)」だからである。

『神学大全』第二部の第一部第二八問題第一項「一致は愛の結果であるか」主文
ーーーーーーーーー

「愛する者」が、「愛されるもの」すなわち
自らの愛している「魅力的なもの」を手に入れて、
いま現在すでに、
自分の手元にその「魅力的なもの」が存在している状態、
それが「実在的な一致」と呼ばれているものです。

世界は善に満ちている
二つの「一致」出典:『世界は善に満ちている

私が描いているライフビジョンの中の
ライフスタイルの項目では、
以下のような表現を使っています。

「お気に入りの本だけが本棚に」
「お気に入りの服だけがクローゼットに」
「お気に入りの靴だけが玄関に」

「お気に入り」のものに囲まれるのは、
「心における一致」をつねに意識するということです。

これは、「愛」を生み出す環境にあるということに
改めて気付きました。

このライフスタイルを掲げてからは、
本も靴も服もかなり減りました。

これは、私のお気に入りだろうか、
ということを常に気を付ける必要があるからです。

うっかりすると、本も服もつい増えてしまいます。

が、定期的に見直すことにしています。

目にするものは、お気に入りのものだけというのが
いかに贅沢な空間か、自分でわかっているからです。

お気に入りは高価なものである必要はありません。

高価というのは、
他人による基準であって、
自分による基準と一致するとは限りません。

自分にとって、快適でありさえすればいいのです。

人生を豊かにするには、
たくさんのものが必要なものではなく、
良質なものがあればよいと考えています。

あなたのまわりには、どんなお気に入りのものがありますか。

20221022 「愛」と「喜び」_世界は善に満ちている(8)vol.3569【最幸の人生の贈り方】

「善くあること」と幸福

■「愛するとは、ある人のために善を望むことである」

「愛するとは、ある人のために善を望むことである
(amare est velle alicui bonum)」と、トマスは言っています。

ーーーーーーーーー
哲学者〔アリストテレス〕が『弁論術』第二巻で言っているように、
愛するとは、ある人のために善を望むことである。

かくして、愛の運動は二つのものへ向かう。

すなわち、
(一)人が誰か──自らまたは他者──のために望む善へ、そして、
(二)その人のために善を望むところのその人へと向かう。

それゆえ、誰かが他者のために望むところの善に対しては
「欲望の愛」が持たれ、
他方、誰かがその人のために善を願うところの
その人に対しては、「友愛の愛」が持たれる。

『神学大全』第二部の第一部第二六問題第四項
「愛は、適切な仕方で、友愛の愛と欲望の愛に分けられるか」主文
ーーーーーーーーー

■「愛」には二つの対象がある

「愛するとは、ある人のために善を望むことである」という文を
丁寧に分析することによって、
人間が「愛」を抱くさいには、実は、
対象が二つあるということを
トマスは明らかにしているのです。

ーーーーーーーーー
我々が誰かを愛するのは、
その人に何らかの善が内在することを望むかぎりにおいてであり、
他方、我々が誰かを憎むのは、
何らかの悪がその人に内在することを望むかぎりにおいてである。
〔……〕

愛が関わる二つの対象のどちらも善である。

というのも、愛する者は善を誰かに──
自らに適合する者である誰かに──望むのだからである。

他方、憎しみが関わる二つの対象のどちらも
悪という特質を有している。

というのも、憎む者は悪を誰かに──
〔自らに〕不適合である誰かに──望むのだからである。

『神学大全』第二部の第一部第二六問題第四項
「愛は、適切な仕方で、友愛の愛と欲望の愛に分けられるか」主文
ーーーーーーーーー

■「友愛の愛」と「欲望の愛」

愛には二つの対象があって、
そのどちらも善だとトマスは述べています。

そして、この「二つの対象」という話が、
さきほど出てきた「友愛の愛」と「欲望の愛」の話と
つながってくるのです。

「愛する者は善を誰かに──自らに適合する者である誰かに──望む」
とトマスは言っていますが、
この「誰か」に対して持たれる愛が「友愛の愛」で、
その「誰か」に対して望まれる「善」に対して持たれる愛が
「欲望の愛」です。

たとえば、誰かが恋人に花を贈るとします。

その場合、その人は、「恋人」に対して「友愛の愛」を有し、
「花」に対しては「欲望の愛」を有している
ということになります。

正確には、「愛する者Aが善Bを誰かCに望む」
ということがあるときに、
AがCに対して抱く愛が「友愛の愛」と呼ばれ、
AがBに対して抱く愛が「欲望の愛」と呼ばれます。

誰かを愛するときに、その人に対して願われる最大の善、
その人にそういう善が備わるといいなと
望まれる最大の善は、「幸福になること」です。

親が、生まれてきた子供に望む善は、
なんといっても「幸福になること」ですよね。

「有名になってほしい」とか
「裕福になってほしい」というようなことを
望むこともあるかもしれませんが、
その場合であっても、
「有名になれば幸福になれるから」
「裕福になれば安定した幸福な人生を送れるから」
ということがあるのだと思います。

その場合、トマスの言葉遣いによると、
「子供」に対して「友愛の愛」が持たれ、
「幸福」に対して「欲望の愛」が持たれている
ということになるわけです。

■「善くあること」と幸福

「誰かが何かを欲望しつつ愛するさいには、
そのものを、自らが善く在ることに属するものとして
捉えている」とトマスは言っています。

「善く在ること」というのは、
「幸福であること」と深く繫がるものです。

「幸福」は「幸運」とは異なります。

「幸運」は外から偶然的な仕方で舞い込んでくるものですが、
それだけでは「幸福」にはなれない。

「幸福」になるためには、
「幸運」を生かすことができるような
堅固な人柄の持ち主であることが必要だし、
「不運」にさいしてもそれを乗り切ることのできるような
内的に安定した力を有していることが必要ですね。

そういう意味で「善く在ること」、
つまりその人の存在全体が充実していてこそ、
はじめて「幸福」になることができると
トマスは考えるのです。

そして、私の場合、
そうした「善く在ること」を実現するためには、
優れた哲学書を読解して
人生を生き抜くための様々な洞察を学ぶことが
とても大切なわけです。

そのとき、哲学書というものは、
他の本でも代替可能であったり、
単なる暇つぶしの手段であったりするようなものではなく、
私の人生、いやもっと言えば私の存在そのものと
一体化したようなものとして
捉えられることになるわけです。

アニメが好きな人は、アニメを
「自らが善く在ることに属するものとして捉えている」
ことになるでしょうし、
サッカーが好きな人は、サッカーを
「自らが善く在ることに属するものとして捉えている」
ことになるわけです。

逆に言えば、そのくらいまで好きになるものと
出会えることが「幸福」なのかもしれません。

世界は善に満ちている

ちょっと引用が長くなりましたが、
具体例がわかりやすく感じましたし、
幸福になるためのヒントというよりも、
肝の部分が書かれているように思いました。

まず、幸せな人生を送るために必要なものとして、
「善く在ること」その存在が充実することが
書かれています。

著者の場合は、哲学書をとりあげていましたが、
これはアニメでもサッカーでもいいとのこと。

いずれにしてもこのような存在があることが
幸福につながるということです。

もう一つは、「喜び」や「悲しみ」を一緒にできる
大切な人の存在ですね。

このような人が存在することが、
人生を幸せに豊かにすることにつながります。

いずれも納得できることですね。

私の場合は、哲学書に限らず、本です。

本を読むこと自体が
私にとっての生きることの一つといっても
よいのかもしれません。

情報を得るための読書ではなく、
生きるための読書です。

このメルマガが休むことなく続けられるのは、
本を読むことをベースに置いているからに
ほかなりません。

これは、他の人にとってそのまま
真似できることではありません。

どうやら、毎日本を読むということは、
他の人にとっての当たり前ではないからです。

それはそれでよくて、
大切なのは、自分にとって、
毎日欠かさず行うことは何かを見つけて、
それを意識して行うことかと思います。

これは、ライフワークなので、
「努力」は必要ありません。

「生きること」そのものですから。

そして、一つでなくてもいいと思います。

ライフワークはいくつあってもいいですよね。

そして、幸せな人生のために、
もう一つ大切なことは、「喜び」や「悲しみ」を
ともにすることのできる存在です。

これがあるから、「贈り物」を選ぶときに、
楽しいんだなと思いました。

自分のためのものを探すのももちろん楽しいですが、
誰かが喜ぶ顔を想像しながら、
「贈り物」を選ぶときも楽しいですよね。

いつも喜ばれるとも限りませんが、、、

いずれにしても「贈り物」は贈るために選ぶとき、
そして、「贈り物」を受け取ったときに、
役目を終えるのだと思いますので、
いただくときも、
そのものが自分の気に入るかどうかは置いておいて、
喜んで受け取るということが
大切なのだと考えています。

この考え方は、お片づけのこんまりさんに教わりました。

いただいたものがなかなか捨てられないという悩みに対して、
「いただきものはいただいた時点で、
役目が終わっているので、
自分が今いらなければ処分していいんですよ〜」
と答えていたのを聞いて、
なるほど!と思ったのです。

所ジョージさんは、気前よく、人に物をあげますが、
そういう楽しみや喜びをよく知っているからなんだなあとも
思いました。

人生を幸福に送るためのヒントが
たくさん書かれていて、とても学びになりました。

あなたは、幸福に生きるために、どんなことを大切にしていますか。

20221023 「善くあること」と幸福_世界は善に満ちている(9)vol.3570【最幸の人生の贈り方】

「自己肯定感」を超えて

■複数の「善」、複数の「愛」

これまでお見せしてきた図では、
私の「欲求能力(心)」にはたらきかけてくる「善」は
一つだけでしたね。

でも、実際には、そんなことはないわけです。

たとえば、私の場合、久しぶりに大型書店に足を運んで、
様々な分野の棚の前を歩いていれば、
目に飛び込んできて心を動かしてくる本が、
たいてい何冊もあります。

そして、購入した何冊かの本をさっそく読むために、
これまでに入ったことのなかった喫茶店に入ってみたら、
実に雰囲気がいいし、飲み物の味もいい。

流れている音楽もとても好みだけれど、
これは一体何という音楽なのだろう……

こんな感じで、私の心に訴えかけてくる
「善(欲求されうるもの)」は
実に多様で多彩でありうるわけですね。

このように、私たち一人ひとりの心の中には、
様々な「善(欲求されうるもの)」の「刻印」が
刻み込まれていくわけです。

様々な「善(欲求されうるもの)」が
心の中に住んでいるという言い方もできます。

■「自己肯定感」を超えて

すべての人間は、この世界と切り離しえない
関係性のうちに生きています。

そうである以上、自己を愛するということは、
自己と切り離しえないこの世界をも
同時に肯定し愛するということだと思うのです。

「この世界にはろくなものが存在しないし、
ろくな出来事も起こらないし、
周りも虫の好かない奴ばかりだけれども、
自分のことだけはとても好きだ」
というようなことはありえないように思います。

(学生)たしかに私も
「何も好きになることができない自分自身も好きになれない」
と考えていましたね。

(哲学者)君の言葉を逆転させて、
「様々なものに心を動かされ、
それらを好きになることができている自分のことが好きになる」
ということも言えるのではないかと思うのです。

たとえまだ実際に獲得することはできていなくても、
様々な「欲求されうるもの」との「心における一致」が
実現していて、
多様な「欲求されうるもの」の「刻印」が
心の中に存在している人は、
自分を肯定しやすくなる。

逆に、心の中にそういったものが全く存在しないと、
心が空虚になってしまい、
自分を肯定するのが難しくなってしまうと思います。

世界は善に満ちている
「愛」の成立構造(複数の「善」、複数の「愛」) 出典:『世界は善に満ちている』を元に改変

世の中に「自己肯定感」という言葉があふれていますが、
世界と切り離して、自分だけを好きになるというのはできなくて、
自分を取り囲む世界とともに、
自分を愛するという「自己肯定感」の考え方には、
とても共感します。

そもそも、世界には、自分が意識して求めなくても、
すでに与えられているもので、
満ちあふれています。

それらを当たり前と受け取るのか、
ありがたいと思って受け取るのかだけでも
世界は変わって見えてきます。

その「善」に対する感受性があればあるほど、
愛をたくさん受け取ることができ、
欲求能力が高まり、
結果として喜びもたくさん味わえるという
循環の中に身を置くことができるのかなと思います。

自分の体の中には、
宇宙の恒星と同じくらいの微生物がいるというのであれば、
自分自身もまた、宇宙を形成していると
考えてもよいでしょう。

とすると、縁あって、自分の体を構成、運用してくれているものに
対しても、愛と喜びののやりとりがあってもいいのかなとも
思いました。

すると、私たちは善に満ちている世界の中で、
善によって構成されている体で生きていることになります。

これは、なんとすばらしいことでしょうか。

あなたのまわりには、どんな魅力的なものが見つかりますか。

20221024 「自己肯定感」を超えて_世界は善に満ちている(10)vol.3571【最幸の人生の贈り方】

この記事は、メルマガ記事から一部抜粋し、構成しています。

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