EXTRA LIFE なぜ100年で寿命が54歳も延びたのか

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EXTRA LIFE なぜ100年で寿命が54歳も延びたのか
Extra Life: A Short History of Living Longer

スティーブン・ジョンソン(著), 大田直子(翻訳)
朝日新聞出版 (2022/2/18)

スティーブン・ジョンソン Steven Johnson 
『世界をつくった6つの革命の物語――新・人類進化史』『世界を変えた6つの「気晴らし」の物語――新・人類進化史』『世界が動いた「決断」の物語――新・人類進化史』(以上、大田直子訳)、『世界を変えた「海賊」の物語――海賊王ヘンリー・エヴリーとグローバル資本主義の誕生』(山岡由美訳、以上、朝日新聞出版)、『感染地図――歴史を変えた未知の病原体』(矢野真千子訳、河出書房新社)、『完璧な未来(Fut ure Perf ect )』『いいアイデアが生まれるところ(Where Good Ideas Come From)』『空気の発明(The Invention ofAir)』『悪いことはすべてあなたのためになる(Everything Bad Is Good for You)』などベストセラー9冊を著している。影響力のあるさまざまなウェブサイトを立ち上げ、また、PBSとBBCのテレビシリーズ『私たちはどうして現在にいたったか(How We Got to Now)』の共同制作者であり、司会も務めている。妻と3人の息子とともに、カリフォルニア州マリン郡とニューヨーク市ブルックリンで暮らしている。

大田直子 おおた・なおこ
翻訳家。東京大学文学部社会心理学科卒。訳書は、スティーブン・ジョンソン著『世界を つくった6つの革命の物語』『世界を変えた6つの「気晴らし」の物語』『世界が動いた「決断」の物語』、A・S・バーウィッチ著『においが心を動かす――ヒトは臭覚の動物である』(河出書房新社)、マット・リドレー著『人類とイノベーション――世界は「自由」と「失敗」で進化する』(NewsPicksパブリッシング)、リチャード・ドーキンス著『魂に息づく科学』『さらば、神よ』、オリヴァー・サックス著『音楽嗜好症』『道程』、ブライアン・グリーン著『隠れていた宇宙』(以上、早川書房)ほか多数。

人類史上、平均寿命35年という長い歴史を
この100年で、突き抜けてきました。

私たちは、10歳以下の子供が亡くなるのが
日常だった生活から、
生まれた子供が今後100年生きることも
めずらしくないという日常に変わった時代に
生きています。

一方、これらの変化が、地球の人口爆発を招き、
それとともに地球環境の大きな変化と
気候変動の要因をつくりました。

すべてはよかれと思ってやってきた行為の結果ではありますが、
よい結果だけを招いたわけではありません。

今までは、悪いことの結果は、
ある部族、ある地域の衰退を招いただけでしたが、
現在は、それが地球規模の課題になっているというのが
今までの人類が経験したことのない試練です。

私たちひとりひとりの考え方と行動が、
世界を作っていると考えています。

生老病死というものに、
どう向き合っていくのがよいか、
たった一つの正解はないと思います。

そして、ひとつの行為が、
よいこともわるいことも生み出すということを
覚えておくことも大切だと考えます。

人類はどのように〝二万日〟を勝ち取ったのか?

■プラス二万日

この三、四世紀のあらゆる進歩のおかげで、
人は平均で約二万日も長く生きることになった。

このプラス二万日のうち、
どれだけがワクチンによるもので、
どれだけが無作為化対照二重盲検法によるもので、
どれだけが飢饉の減少によるものなのか?

現在私たちを生かし続けている力は何なのだろう?

■見るべきは「平均」ではなく「分布」

人類はたった一世紀で平均寿命を二倍に延ばし、
人間が経験する最も悲惨な出来事、
つまり子どもの死亡の確率を
一〇分の一未満に減らしたのである。

■寿命を延ばしたイノベーション

〈数百万の命を救ったイノベーション〉
エイズ・カクテル療法
麻酔
血管形成術
抗マラリア薬 CPR (心肺蘇生法)
インシュリン
腎臓人工透析
経口補水療法
ペースメーカー
放射線医学
冷蔵
シートベ ルト

〈数億の命を救ったイノベーション〉
抗生物質
二又針
輸血
塩素消毒
低温殺菌

〈数十億の命を 救ったイノベーション〉
化学肥料
トイレ/下水道
ワクチン

EXTRA LIFE

令和3年版厚生労働白書によると
https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/20-2/dl/01.pdf

日本人の平均余命の推移は、

1947年: 
男性0歳  50.06年
男性65歳 10.16年
女性0歳 53.96年
女性65歳 12.22年

1955年
男性0歳  63.60年
男性65歳 11.82年
女性0歳 67.75年
女性65歳 14.13年

1990年
男性0歳  75.92年
男性65歳 16.22年
女性0歳 81.90年
女性65歳 20.03年

2019年
男性0歳  81.41年
男性65歳 19.83年
女性0歳 87.45年
女性65歳 24.63年

1965年生まれの私の視点で見た場合、
1965年 0歳 72.92年
1985年20歳 61.20年
2005年40歳 46.38年
2020年55歳 34.09年

令和2年簡易生命表:
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life20/dl/life18-07.pdf

年齢別の死亡率で見ると、
9歳、10歳の死亡率がもっとも低く、
10万人に対して、わずか5人。

90歳まで生き残っているのは、
男性10万人に対して、28,363人。
女性10万人に対して、52,482人。

私たちが生きている間に
驚くほど平均寿命が伸びたのです。

65歳の時点で、
あと12年の未来か、
あと25年の未来か。
大きく異なります。

 
私たちの先輩、私たちの取り組みの
何がよかったのか、
そして、その結果何を招いているのか、
この本を読みながら、考えていきたいと思います。

あなたの平均余命は、あと何年ですか。

20220601 EXTRA LIFE なぜ100年間で寿命が54年も延びたのか(1)vol.3426【最幸の人生の贈り方】

1万年平均寿命はあがらなかった

■平均寿命の天井

ホモサピエンスはさまざまな功績を
なしとげたにもかかわらず、
子どもの三分の一が大人にならずに死亡しており、
平均寿命三五年という長く続く「天井」の下に
閉じ込められたままだったのだ。

人間は一万年のあいだに
農業、火薬、複式簿記、絵画の遠近法を発明した──が、
こうした人間の集合知のまぎれもない進歩をもってしても、
ある重要な分野では目立った変化を
起こせなかった。

■イギリス貴族の平均寿命

横ばい状態が二世紀続いたあと、
一七五〇年ごろ、イギリス貴族の平均寿命は
毎年安定した割合で延び始め、
上流階級とその他の人びとのあいだに
大きな差が生まれたのだ。

一七七〇年代には、イギリスの貴族は
平均で四〇代まで生きていた。

さらに一九世紀の幕開けには五五年の境を越え、
ビクトリア朝時代半ばまでに
平均寿命は六〇年に近づいていたのだ。

■健康格差の誕生

イギリス貴族の平均寿命が上昇していった現象は、
別の理由でも注目に値した。

それは、異なる社会間、あるいは
同じ社会内の異なる社会経済集団間の、
重大な健康格差である。

ジョン・グラントの時代には、
男爵、小間物商、狩猟採集民のどれに生まれるかは
問題ではなかった。

いずれにせよ出生時平均余命は三五年程度だ。

それが一八世紀後半までに変化することになる。

健康の格差が富の格差と並行して
現われ始めたのだ。

一九一〇年までに、イギリスとアメリカの
全体的な平均寿命は五〇年を超えた。

先進工業国の何千万という人びとの健康の動向が、
これまでなかった好循環に入り、
ホモサピエンスの寿命を抑えてきた天井を
とうとう打ち破ったのだ。

しかし、先進工業国とその他の国々のあいだに、
悲劇的な勾配を生み出すことになった。

発展途上世界の社会は、
西洋の帝国主義に食いものにされ、
ヨーロッパの病気によって壊滅させられ、
ヨーロッパと北アメリカで形になりつつあった
初期の公衆衛生制度に助けられることもなく、
先進国の右肩上がりに加わることが
できなかっただけではない──
ほとんどが後退したのだ。

アフリカ、インド、南アメリカ各地の
平均寿命は三〇年を下回った。

長い間、人類の平均寿命が35年だったといっても
60歳以上生きる人がいなかったわけではありません。

子供のうちに、3分の1はなくなりましたが、
それを乗り越えると、
子どもや孫の顔を見ることができる人は
狩猟採集民でもいました。

高齢者の知恵が重んじられる文化は
狩猟採集民でも見られます。

著書では、自分達の年齢を知らない
アフリカの狩猟採集民の
平均余命を計算するために、
年上には敬語を使う習慣から
丹念に割り出した研究が紹介されていました。

平均週20時間しか働かず、
それでも西洋と比べても
高い生活水準をもっていたということです。

あなたの祖先は、どれくらい長生きしましたか。

20220602 1万年平均寿命はあがらなかった_EXTRA LIFE(2)vol.3428【最幸の人生の贈り方】

子どもが突然死する日常を人類はどうやって克服したか

■子どもが突然死する日常

天然痘は少なくとも三大ピラミッドの時代から
ずっと苦しみの種だった。

一六五〇年から一七五〇年にかけての
マンチェスターとダブリンでは、
記録されている全死者の一五パーセントの
死因が天然痘だった。

幼い子どもはとくにこの病気に弱い。

一八世紀のスウェーデンでは、
天然痘による死亡の九〇パーセントは
一〇歳未満の子どもだった。

子どもの突然死という
人間にとって最も衝撃的な経験が、
誰にとっても日常的な現実だったのだ。

子どもが熱を出して、
そのあとはっきり発疹が現われたら、
数日以内に息子や娘は死んでしまう──
そしてたいてい、すぐにきょうだいもあとに続く
──と知りながら、親たちは生きていた。

■ワクチン接種の効果

正確とされる推定値では、
ジェンナーの最初の実験から二世紀で、
ワクチン接種とその集団導入のおかげで
約一〇億の命が救われている。

その異例の成功はたしかに医科学の成果だったが、
活動家や有名な知識人や法律改革派のおかげでもある。

根づくためには社会運動と説得行動と、
それまでにない公的機関が必要なアイデアだったのだ。

■天然痘の根絶

自然発生の大痘瘡ウイルスが最後にヒトに感染したのは、
一九七五年一〇月だった。

隠しようのない膿疱が
三歳のラヒマ・バヌ・ベーグムという
バングラデシュ人の少女の皮膚にできた。

この症例を知らされたWHOの職員が送ったチームは、
幼い少女を治療し、彼女と接触していた島民全員に
ワクチン接種を行った。

彼女は病気に打ち勝ち、
ボーラ島でのワクチン接種のおかげで、
ウイルスが別の宿主内で増殖することはなかった。

四年後の一九七九年一二月九日、
ほかでの発生を地球規模で徹底して調査したあと、
科学者で構成される委員会が、
天然痘は根絶されたと宣言する文書に署名した。

EXTRA LIFE

現在は、9歳、10歳の死亡率がもっとも低く、
10万人に対して、わずか5人。

わずか300年前は、
子どもの四人に一人が一〇歳になる前に死亡し、
しかもその多くが天然痘で死亡するという
日常だったのです。

それも兄弟もろとも連れ去ってしまうとなると、
なんとも辛いことです。

この天然痘ウイルスは、
人間以外の自然宿主がいないということがわかり、
根絶に成功しました。

本当にありがたいことです。

日本の予防接種法は、昭和23年(1948年)に制定されました。
厚生労働省:予防接種に対する考え方について
https://www.mhlw.go.jp/stf2/shingi2/2r9852000000s2dr-att/2r9852000000s2kz.pdf

このときは、
痘そう、ジフテリア、腸チフス、パラチフス、
百日せき、結核、 発疹チフス、ペスト、
コレラ、しょう紅熱、インフルエンザ、ワイル病
の12疾 患を対象とし、
罰則付きの義務規定です。

その後、20年間に対象の入れ替えがあり、
また、昭和40年代には予防接種事故が
社会問題となりました。

また、種痘後脳炎などの副反応が
社会的に大きな問題となり、
予防接種による健康被害に対する救済が求められ、
昭和51年に健康被害救済制度がされました。

さらに、平成6年、
義務接種から勧奨接種へ変更されました。

一般的な臨時接種として接種していた
インフルエンザについては、
社会全体の流行 を抑止するデータは
十分にないと判断されました。

平成13年に疾病に区分を創設し、
社会的感染を防ぐものと
個人の発病を防ぐものに分けられ、
前者のみ努力義務が設けられました。

努力義務とは、
「接種は強制ではなく、最終的には、あくまでも、
ご本人が納得した上で接種を
ご判断いただくことになります。」

今回の新型コロナワクチンの接種も
この努力義務にあたります。
https://www.cov19-vaccine.mhlw.go.jp/qa/0067.html

どの予防接種も本人が判断する必要が
あることになります。

現在、生まれた子どもに推奨されている
予防接種のスケジュールはこちら。
https://www.jpeds.or.jp/uploads/files/vaccine_schedule.pdf

あれ、知らないうちに、ポリオが
生ワクチンから、不活化ワクチンになっている?!
(2012年から導入されていました)

意外に知られていないのは、
不活化ワクチン効果期間が、
一生続くわけではないことです。

体力の弱い、10歳未満の子供の命を
救うための定期接種ととらえるのがよいかと
思います。

インフルエンザの予防接種については、
いったん集団接種から外されたあとに
高齢者の肺炎の併発や死亡が社会問題化し、
努力義務も勧奨がない形で、
復活しました。

ワクチンをひとくくりに判断するのではなく、
ワクチンごとにリスクと効果を判断したうえで、
接種するかどうかを決めるのがよいと
私自身は考えます。

希望する高齢者以外のインフルエンザワクチン接種は
不要だというのが、私の判断です。

子どもについては、親が判断する必要があります。

今回の新型コロナウイルスのワクチン接種では、
アメリカやカナダの企業では、
接種しない人は、職を奪われることも
ありました。

日本では、私の知る限り、そういうことが発生せず、
よかったと思います。

また、ワクチンパスポートが今回世界的に普及しましたね。

日本では、マイナンバーカードの活用とデジタル化に
貢献したのではないでしょうか。

あなたは、ワクチン接種についてどのような方針をもっていますか。

20220603 子どもが突然死する日常を人類はどうやって克服したか_EXTRA LIFE(3)vol.3428【最幸の人生の贈り方】

データで原因をとらえる

■コレラの感染と下水道システム

一八五四年九月八日、
ロンドンのソーホー地区の行政区委員会が、
ロンドン史上最も壊滅的なコレラの集団発生を止めようと、
ブロードストリート四〇番地にあった
井戸のポンプのハンドルを取りはずした。

ハンドルをはずすよう要請したジョン・スノウは、
コレラは汚染された飲料水によって引き起こされると、
四年以上前から主張していた。

当時のレンズ製造技術はまだ進歩が不十分で、
いまでは病気の原因だとわかっている細菌──
コレラ菌──を見ることはできなかった。

しかしスノウは、その病原体を見る方法が
ほかにあると気づいた。

顕微鏡による拡大ではなく鳥瞰図を採用し、
死者の空間的分布から間接的に病原体を
認識したのだ。

コレラが汚染された給水源によって
引き起こされるとわかったことは、
解決策の一部にすぎない。

実際に病気に対処するには、
飲料水からコレラ菌を取り除かなくてはならず、
そのために市の下水システムを
給水源と分けなくてはならない。

その目的で建設されたのが、
一九世紀最大の土木事業の業績となった──
ロンドンの下水道システムだ。

■黒人差別と社会疫学の誕生

地道な実地調査をする疫学と地図を利用して、
人間の健康に対する人びとの認識を変えたのは、
博学のアフリカ系アメリカ人の有識者、
W・E・B・デュボイスである。

アフリカ系アメリカ人は白人アメリカ人より
高い率で死亡しており、
その格差の原因のひとつは、
彼らの生活環境が人種差別の抑圧力に
左右されることにあったのだ。

彼はフィラデルフィア第七区における
アフリカ系アメリカ人の高い死亡率を
裏づける統計学的証拠を、
一〇以上の図表によって明らかにしている。

黒人の死亡率は近隣の白人よりも
五パーセント高かった。

黒人のフィラデルフィア市民が
一五歳になる前に死亡する確率は、
近隣の白人の二倍だった。

しかしデュボイスは、当時の人種的偏見を考えると、
差異を記録するだけではだめだとわかっていた。

もっと重要なこととして、
第七区に「劣等の種」が居住していることの
必然的結果ではないことを示すために、
その差異を説明しなくてはならなかったのだ。

調査するなかで、
ひと部屋に一〇人が住んでいるアパート二軒と、
ひと部屋当たり四人以上が住むアパート一〇〇軒以上が
記録された。

ほとんどの白人フィラデルフィア市民は、
黒人の近くに住みたがらないという
否定できない事実のせいで、
黒人は家の選択、とくに安い家の選択が、
きわめて厳しく限定された。

黒人の大半は、経済の世界では富裕層の賄い人であり、
個人宅、ホテル、大きな店などで働いている。

この仕事を失わないためには、
近くに居住しなくてはならない。……
したがって黒人はその仕事の性質上、
白人労働者の大半よりはるかに都心に
密集せざるをえない。

多くのアフリカ系アメリカ人が以前、
結核のような伝染性の病気で死亡していたことは、
「黒人種」に固有の病気にかかりやすい傾向の
結果ではなかった。

市全体のなかで最も不衛生な空間に送り込むような、
社会のあり方の間接的影響だったのだ。

EXTRA LIFE

コレラが日本で最初猛威をふるったのは、1822年。

中国経由で沖縄、九州に上陸し、
西日本で大きな被害を出しました。

そして、江戸では、1858年(安政5年)。

感染源は、ペリー艦隊の米国艦船。

江戸の死者数は、約10万人とも、
28万人や30万人に上ったとも
記録があるそうです。

1862年には、最も多くの犠牲者を出したとのこと。

明治に入っても、コレラ感染が度々発生し、
特に明治12(1879)年と19年には
死者10万人を超える大流行となりました。
(参考:幕末から明治にかけてのコレラ大流行と予防法)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00854/

日本の下水道についても調査。
令和3年3月現在で、全国の下水道普及率は80.1%。
(https://www.jswa.jp/sewage/qa/rate/)

都道府県別でみると、偏りがあります。

上位はおおよそ人口密集地域、
下位は比較的人口の密度が低い地域です。

国土交通省によると
人口が集約されていない場所は
合併槽などによる個別処理の方が
コスト的に望ましいとのこと。

また、徳島県だけ、
下水道普及率が18.6%と
他地域よりかなり低いです。

徳島県によると、
台風の常襲地域であり、
浸水被害に悩まされてきたことから、
汚水処理より浸水対策の整備に力を注いできた経緯がある
とのこと。
https://www.pref.tokushima.lg.jp/FAQ/docs/00030564

健康管理の面からいえば、
大切なのは、上下水道の分離であり、
汚水処理です。

汚水処理については、全国で92.1%

最下位の徳島県は、64.6%。
3分の1は、汚水処理が
されていないことになります。

豊富な川の水量によって、
支えられているようです。

日本での疫学についても調べてみると、
さまざまな成果をあげていることが
わかります。

脚気の原因が伝染病ではなく、
栄養の欠陥とした 1885年の研究論文は、
国際的にも評価。

1899年の肺結核死亡全国調査により、
結核予防法の基礎となった。

その後、大正時代、
発疹チフス、スペイン風邪、赤痢など
感染症を中心に研究されました。

そして、戦後は、
公害病や成人病に軸足が移っています。

(参考:20 世紀の疫学を振り返って
https://www.niph.go.jp/journal/data/49-4/200049040007.pdf)

現在は、大量の生化学データや遺伝子情報を
得ることが可能になっているし、
携帯で行動データを得ることも
可能になっています。

ますます、疫学が重要になるとともに、
個別化の対応も進んでいくのでしょうね。

そして、原因が
遺伝によるものか、
環境によるものか、
習慣によるものか、
成長・加齢によるものかを
判断する知恵も必要かと思います。

簡単ではないですね。

あなたは、体の不調の原因を探るのに、どんな方法を用いますか。

20220604 データで原因をとらえる_EXTRA LIFE(4)vol.3429【最幸の人生の贈り方】

子どもたちの死亡率を激減した3つのこと

■汚染された牛乳

一九世紀半ば、ニューヨークの人口が
上昇の一途をたどっていたころ、
子どもの死亡率は五〇パーセントに近づき、
工業化されたリヴァプールでファーが
記録した大量死にほぼ匹敵していた。

一九世紀初め、
アメリカのほとんどの大都市で報告された、
全死者の四分の一が五歳未満の子どもだった。

一八四〇年代には、ニューヨークの全死者の
半分以上が乳幼児だった。

最強の殺し屋は汚染された牛乳だったようだ。

しかし一九世紀初期の牛乳は、
かつてないほど命取りだった。

「かす」「残飯」「 残滓」。

蒸留酒業者はその廃棄物を捨てる代わりに
酪農業者に売り、酪農業者はそ れを
コストの高い穀物や牧草の代わりに
ウシに与えることができる。

ウイスキーの残滓を食べて生き るウシが出す乳は、
あまりおいしそうではない青い色だが、
少なくとも爆発的に増えるマンハッタン の全住民に
新鮮なまま届けることはできる。

酪農業者は「 純粋な田舎の牛乳」──
商品を説明するのに使われた偽ブランド──に見せるために、
チョーク(石灰)と小麦粉と卵を混ぜた。

広告戦略と、約一リットルたった六セントという安価が
あ いまって、マンハッタンだけでなく
国中の都市部の労働者階級は、
まもなく残滓牛乳のとりこになっ た。

そしてその直後に、子どもが恐ろしいペースで
命を落とした。

■低温殺菌

牛乳はかつて命取りだったが、いまは安全である。

一八六五年にはパリ大学の教授になっていた
パスツールは、
ワインを摂氏五四度くらいに温めることによって、
人間が気づくレベルで風味に影響を与えることな く、
腐敗を防ぐことができる手法を思いついた。

現在、低温殺菌牛乳はすべて、
パスツールが一八六五年に 特定した基本技術を使って
生産される。

それでもアメリカで低温殺菌が
牛乳業界で標準になったのは一九一五年、
パスツールが開発してからまる五〇年もたってからだ。

■冷蔵技術

南北戦争が終わるまでに、
機械式冷却の機能的な設計が数多く開発され、
世紀末には、牛乳瓶が温度を管理された環境で保存され、
出荷されるようになって、
腐敗のリスクが大幅に低減した。

■飲料水の塩素

二〇世紀初めから世界中の都会人たちは、
飲料水に含まれる微量の塩素を摂取するようになった。

塩素は十分な量を口にすると毒になるが、
ごく少量なら人間には無害である。

一方で、コレラのような病気を引き起こす
細菌にとっては致命的だ。

■経口補水療法

コレラで人が死ぬのは、
不運にも細菌を摂取した人の体内で、
激しい下痢による重度の脱水と
電解質不均衡が起きるからだ。

極端な症例では、コレラ患者は脱水によって
数時間で体重の三〇パーセントも
失うことが知られている。

一八三〇年代に早くも、患者に点滴治療を施すと、
患者はその水分の電解質で命をつなぎ、
そのあいだに自然に治癒する場合があることを、
医者は見出していた。

一九二〇年代には、コレラ患者の点滴治療は
病院での標準処置になっていた。

しかしその時点では、
コレラはおもに開発途上国に追いやられており、
こうした国では病院や診療所も
訓練された医療従事者も乏しい現状があった。

成長中の都市に群がる人びとは、
現代的な公衆衛生体制も点滴の装置も
利用することができず、
一九 〇〇年から六〇年間で何百万人がコレラで死亡し、
その大半を幼い子どもが占めていた。

重度の脱水症に対する比較的簡単な治療法は
すでに存在していた。

しかもそれは病院ではない場所で、
医療従事者でない人でも行える。

現在、経口補水療法と呼ばれるこの治療は、
しゃくにさわるほど簡単だ。

砂糖と塩を補った水をたくさん飲ませればいい。

一九七一年、バングラデシュ独立戦争のせいで
大勢の難民がインドに押し寄せた。

まもなくコレラの激しい集団発生が、
バンガウン郊外の満員の難民キャンプで
起こった。

ジョンズ・ホプキンス大学卒の医師で
コレラ研究者のディリップ・マハラナビスはすぐに、
既存の点滴の手順は機能しないと気づいた。

点滴液を扱う訓練を受けたメンバーは
チームに二人しかいない。

そこでマハラナビスはやり方を変えることにした。

標準処置にはしたがわず、
彼とチームは即席の経口補水治療を始めたのだ。

マハラナビスの指揮の下、
難民キャンプの三〇〇〇人以上の患者が
経口補水療法を受け、
結果的にその戦略は驚異的な成功を収める。

死亡率は三〇パーセントから三パーセントにひと桁下がり、
そのすべてがはるかに単純な治療法の
おかげだったのだ。

EXTRA LIFE

残滓牛乳については、初耳でしたが、
wikipediaにまとめられていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/残滓牛乳事件

残滓牛乳の問題が解決したのは、
19世紀末期だそうです。

さて、日本では低温殺菌ではなく、
高温殺菌牛乳が主流です。

日本で売られている低温殺菌は、
66℃・30分間殺菌です。

一方、主流なのは、超高温殺菌牛乳と呼ばれ、
120℃~150℃ 1~3秒の殺菌方法で行われます。

低温殺菌牛乳は、
すべての細菌などを死滅させることはできないが、
人間に有害な細菌などは死滅するため、
冷蔵保管により一定期間は
安心して飲むことができるのに対して、

超高温殺菌牛乳は、
耐熱性胞子形成菌を死滅させ、
栄養成分は変わりませんが、
タンパク質が変性し、風味が変化します。

夫と私は、結婚当初、
超高温殺菌牛乳と低温殺菌牛乳を飲み比べて、
低温殺菌牛乳のほうがおいしかったので、
以来、どうしても買えないとき以外は、
低温殺菌牛乳を選ぶことにしています。

常温保存可能なロングライフ牛乳もあります。

超高温殺菌したあと、気密性の高い容器に
無菌的に充填包装されたものです。

ヨーロッパではよく見かけます。

日本では、超高温殺菌牛乳がなぜ主流かと考えると、
殺菌時間が短くて済むし、
賞味期限も長いので、在庫管理が容易だということに
なるでしょうか。

牛肉は、グラスフェッドかどうか
気にする人が増えていますが、
牛乳はまだあまり見かけません。

しかし、グラスフェッドミルクという
キーワードで検索することができました。

岩手県の中洞牧場です。

通年昼夜放牧で育てているそうです。

今やこういう飼育方法は、ほとんどありません。
貴重ですね。

そして、経口補水療法がこれほどまでに
高い効果をあげていることも
知りませんでした。

子どもが高熱や下痢で苦しんでいるときに、
なすすべもなく見守るしかない親に比べて
親自身が直接的に救う手段が与えられるというのも
とても有効ではないでしょうか。

こんな簡単で、効果の高い手法が、
人類の長い歴史の中で、発見されたのが
わずか70年前というほうが驚きです。

大変すばらしいことです。

この本では、水道水の塩素消毒については、
あまりページを割かれていませんでした。

この機会に東京都の水道水の品質管理も調査。


■残留塩素について
https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/suigen/s_teigenka.html

水道水は衛生確保のため、残留塩素が必要ですが、
残留塩素はカルキ臭の原因の一つとなることから、
東京都水道局では「おいしさに関する水質目標」として、
残留塩素濃度を0.1mg/L以上0.4mg/L以下とすることを
独自に定めています。

水道水の残留塩素は時間の経過とともに減少するため、
浄水場から遠く離れた地域でも
必要最低限の残留塩素を保持できるよう、
浄水場で適切な濃度の塩素を注入しています。

そのため、浄水場付近では残留塩素濃度が
高くなってしまう場合もあります。

そこで、水道水を各地域へ送る拠点である給水所に、
塩素を追加注入できる設備を整備することで
浄水場での塩素注入量を低減し、
浄水場からの距離にかかわらず、
残留塩素濃度がなるべく低く保たれた水道水を
提供していきます。

■高度浄水処理について
https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/suigen/kodojosui.html

高度浄水とは通常の浄水処理に加え、
オゾンの強力な酸化力と
生物活性炭による吸着機能を活用した浄水処理です。

これまでどうしても取り除けなかった
水の中に残るごく微量のトリハロメタンや
イヤなニオイや有機物をほぼ除去することができるため、
より安全でおいしい水をお届けできるようになりました。

そうなんだ。

浄水器と同じことを
浄水場ですでにやっているのですね。

私たちは、先人のおかげで、
子どもたちの死亡率を激減させることが
できました。

とてもありがたいことですね〜

あなたは、どんな牛乳や水を選んでいますか。

20220605 子どもたちの死亡率を激減した3つのこと_EXTRA LIFE(5)vol.3430【最幸の人生の贈り方】

大規模な薬害を起こさない方法

■二〇世紀初頭の薬

現在のパーク・デービス社は、アメリカ屈指の
高い業績と高い評価を誇る製薬会社である。

しかし一九〇〇年のカタログには、
「ダミアナ・エ・フォスフォラス・カム・ナクス」なる製品が
載っている。

「性的生活を復活させる」ために
幻覚作用のあるシュラブとストリキニーネを
混ぜ合わせたものだ。

「ダッフィールドの濃縮薬効液体エキス」
という名前の万能薬には、
ベラドンナ、ヒ素、そして水銀が入っていた。

コカインは粉や巻きタバコだけでなく、
注射できる形でも売られていた。

これが二〇世紀初頭の薬の悲しい現実だった。

二〇世紀初め、製薬業界全体が
ほとんど規制されていなかった。

業界を監督するために一九〇一年に設立された
化学局と呼ばれる組織があった。

唯一の責任は、瓶に列挙されている化学成分が
実際に薬そのものに入っていることの確認だった。

特効薬に水銀やコカインを入れたければ、
それをラベルに記載するかぎり、
FDAにとっては何の問題もなかったのだ。

■ラズベリーの風味のサルファ剤

一九三〇年代初め、ドイツの製薬会社バイエルAGが、
スルファニルアミド、または「サルファ」剤と
呼ばれる新種の薬を開発した。

スルファニルアミドはアルコールにも水にも溶けないので、
既存のサルファ剤は、
子どもが飲み込みにくい丸薬の形で売られた。

一九三七年、新興のS・E・マッセンギル社は、
子どもの口に合うように
ラズベリーの風味を加えたジエチレングリコールに、
薬を溶かすアイデアを思いついた。

サルファには実際に役立つ抗菌効果があり、
ラズベリー風味で甘い薬になったが、
ジエチレングリコールは人間にとって毒である。

数週間のうちに、オクラホマ州タルサで
「エリキシール」と関連する六人の死者が報告された。

いずれも死因は腎不全だ。

FDAが最後のひと瓶を回収するまでに、
七一人の大人と三四人の子どもが、
エリキシールを飲んで死亡している。

さらに、重度の腎障害で入院し、
かろうじて死を免れた人も大勢いた。

「既存の食品医薬品法は、
新薬が販売される前に検査されることを
義務づけていない」。

FDAの検査官は、エリキシール・スルファニルアミドが
宣伝どおりラズベリーのような味なのかは
確認していた。

腎不全を引き起こすかどうかを
わざわざ調べなかっただけだ。

■医薬品の市場メカニズム

一〇五人の死亡は、市場と規制怠慢の結果でもある。

問題はひとりの危険な化学者と無謀な起業家だけに
あったわけではない。

薬をつくって売る体制全体にもあったのだ。

市場そのものが、製薬会社にとって
有効な薬をつくる適切な動機になると思う人も
いるかもしれない。

しかし医薬品の市場メカニズムは、
ほかの消費者製品には当てはまらない二つの要因のせいで、
それほど単純ではなかった。

要因のひとつはプラセボ(偽薬)効果である。

薬の場合は市場が動機にならないもうひとつの理由は、
人間には免疫系という体内薬局があることだ。

人が病気になったとき、
ほとんどは自力で回復する。

■薬の安全性の確認

医薬品の規制ということになると、
FDAが実際にはどれだけ無力かが
明らかになっていた。

憤った市民が改革を強く求め、
一九三八年、フランクリン・ルーズベルトが署名して
食品医薬品化粧品法が成立した。

FDAが初めて、アメリカで売られている
あらゆる薬の安全性を調査する権限を得たのだ。

やっとのことで規制当局が、
ラズベリー風味だけでなく、
問題の薬が人を殺すおそれがあるかどうかという、
もっと重大な問題に目を向けられるようになった。

一九六〇年、
FDAの製薬業界に対する監督は拡大していたが、
さまざまな著しい制約のせいで、
供給される薬物を安全に保つ局の能力は
相変わらず骨抜きにされていた。

新薬を認可または否認するのに、
FDAには六〇日しかない。

医薬品審査官がその期間中に判断を下せなければ、
メーカーは自由に市場に持ち込めるのだ。

とくに驚きなのは、
メーカーには新薬が実際に効くことの証拠を
提出する義務がなかったことだ。

新薬が危険でないとFDAが納得すれば、
製薬会社に発売を許可する。

■サリドマイド

ケルシーがFDAに移る数年前、
ドイツの会社が鎮静催眠剤を
コンテルガンという商品名で売り始めていた。

そしてのちに妊婦のつわりの治療薬として販売した。

その薬の有効成分でサリドマイドと
呼ばれる免疫調整薬には、
奇跡の力があるように思われていた。

一九六〇年までに、世界中の四〇カ国以上で
使用が認可された。

そんなとき、サリドマイド──
アメリカでは商品名ケバドン──の生産と販売の申請が、
フランシス・オルダム・ケルシーの机に届いた。

ケルシーは申請書が不完全だと申し渡すことに決め、
FDAの審査期間が数カ月延びた。

神経損傷を示す研究を知り、
多くの女性がつわりの治療薬として服用していることを考え、
胎児の発育に薬が与える影響に関心を抱いたのだ。

ドイツの産科医たちはすでに、
重度の手足の奇形をもって生まれる子どもが
異常に急増していることを報告し始めていた。

さらに新生児の半分が死亡していた。

一九六二年三月、リチャードソン・メレルは
正式に申請を取り下げた。

世界中で一万人以上の子どもが、
サリドマイドによるアザラシ肢症をもって生まれ、
莫大な数が子宮内で死亡した。

サリドマイドが市場から引き上げられて
二、三カ月のうちに、議会は、
新薬申請に求められる条件を劇的に広げる、
画期的なキーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法を通した。

製薬会社が初めて、安全性だけでなく
効能の証拠提出を義務づけられたことだった。

大手製薬会社は、顧客に毒を盛っていないことの
証拠を示すだけでは不十分である。

ついに、顧客を治していることの証拠を、
実際に示さなくてはならなくなったのだ。

日本での主な薬害について、
厚生労働省が作成した資料から拾いました。
https://www.mhlw.go.jp/bunya/iyakuhin/yakugai/data/yakugai_print.pdf

●ジフテリア予防接種禍事件(1948-1949年)
【被害者】24人(死亡83人)
●キノホルムによる亜急性脊髄視神経症(スモン事件)(1953-1970年頃)
【被害者】1万人以上
●サリドマイドによる四肢欠損等の障害(サリドマイド事件)(1958-1962年頃)
【被害者】約1,000人
●クロロキンによる網膜症事件(クロロキン事件)(1959-1975年頃)
● 解熱剤の筋肉注射による大腿四頭筋短縮症(1973年頃)
【被害者】約1万人
● 血液製剤(血液凝固因子製剤)によるHIV感染(薬害エイズ事件)(1983-1988年頃)
【被害者】1,400人以上
● 血液製剤(フィブリノゲン製剤)によるHCV感染(C型肝炎事件)(1987年頃)
【被害者】約1万人
●陣痛促進剤による子宮破裂・胎児仮死(1970年頃〜)
● MMRワクチンによる無菌性髄膜炎(MMR事件)(1989-1993年頃)
【被害者】約1,800人
●ヒト乾燥硬膜によるプリオン感染(CJD事件)(1997年頃)
【被害者】141人

2000年以降では、
●薬害イレッサ
肺がん治療薬、発売直後から副 作用死多発。
●薬害タミフル
インフルエンザの治療薬を服用 した後、飛び降りなど異常行動 で死亡。10代には使用禁止に。
●HPVワクチン薬害
ワクチン接種を受けた少女に歩 行・記憶障害など後遺症が残る 副反応。2013年接種推奨を中止。

今回、新型コロナウイルスのワクチンの
日本での適用について、
厚生労働省の検査が不要ではないという意見も
見かけましたが、
これらの薬害の歴史をご存知だったのでしょうか。

きちんと日本国内で検査をするという
適切な対応が取られたと思います。

サリドマイドは、諸外国ですでに認可されているという理由で、
簡単に認可したと言われています。

そこからの学びが反映されているのだと思います。

薬の服用について、
もっときちんと事前にテストしてほしいと
思うことの一つは、
多剤投与したときの効果と副作用についてです。

医師は、複数の薬を処方しますが、
製薬会社は、多剤投与の試験を行なっていません。

副作用で胃が荒れるから、
胃の薬も入れとくね。

まあ、考えはわかるのですが、
その胃の薬の副作用はどうなのか。
元の薬と胃の薬を併用したときの効果と副作用はどうなのか。
疑問は次々湧いてきます。

そして、薬を服用すると、
肝臓には確実に負担がかかります。

そこまでして、一次症状を抑える必要があるのか。

患者自身が考えなければいけないと思います。

自分で調べる力をもつこと、
自分で考える力をもつことが
何よりも重要だと考えています。

あなたは、薬を使う前に、どんなことを調べますか。

20220606 大規模な薬害を起こさない方法_EXTRA LIFE(6)vol.3431【最幸の人生の贈り方】

抗生物質で第二次世界大戦に勝った

■細菌の病気

人類は少なくとも文明が始まって以降ずっと、
細菌による病気との生きるか死ぬかの闘いから
抜け出せていなかった。

一九世紀には、全死者の四分の一が結核で亡くなっている。

単純なすり傷や切り傷──あるいは医療処置──による
細菌性感染症も、重大な死因だった。

アメリカ南北戦争での死者の三分の二が、
軍病院でかかった敗血症などの感染症が原因だった
という推定もある。

感染症の脅威は、二〇世紀まで医療介入が
平均寿命を延ばせなかった主原因のひとつだ。

医者に人の命を救う技術があっても、
うかつにも細菌性感染症で死なせてしまう可能性があった。

■大戦の勝因

大戦の終盤、連合国には大量のペニシリンがあったが、
枢軸国は開発さえしていなかった。

それが連合国にとって、
わかりにくいが実質的な強みになった。

合国はより多くの敵を殺す方法を
考え出すことによってではなく、
自分たちの兵士を死なせない新しい方法を
考え出すことによって、
戦争に勝ったとも言える。

■抗生物質が開いたいくつもの扉

ペニシリンの発見とその後継の抗生物質は、
世界中の何億もの命を直接救った。

結核はアメリカの死因第三位だったが、
いまでは五〇位以内にも入っていない。

新しい治療法の扉も開いた。

命にかかわる感染症にとても弱い臓器移植のような根治手術が、
はるかに安全になり、医療の主流になることができたのだ。

EXTRA LIFE

第二次世界大戦と抗生物質の関係は
知りませんでした。

ヒトラー自身が、アメリカ人捕虜がもっていたペニシリンで
救われたというエピソードも紹介されていました。

当時、ドイツは優秀な頭脳を流出させたというのが
最も大きな敗因だとは思いますが、
サルファ剤に力を入れていたことと、
どうやって殺すかに注力していたことの二つから
抗生物質の開発には、力が注がれなかったようです。

一方、アメリカは、真珠湾攻撃の直後、
抗生物質の開発については、
機密事項の取り扱いとし、
終戦間近では、かなりの兵士を救ったということでした。

日本でも、戦後、抗生剤の開発は
とても力を入れてきました。

さて、抗生物質はとても強力がゆえに、
使われすぎて、今では薬剤耐性菌の対応のほうが
問題になっています。

日本人は、どれくらい抗菌薬を使っているのでしょうか。
グラフを見つけました。

厚生労働省:抗菌薬使用量の国際比較
https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000121246_1.pdf

「日本は、抗菌薬の販売量の総量自体は多くはないが、
幅広い細菌に有効な3系統の抗菌薬の使用割合が、
他国と比較して、極めて高い。」

ヒトの検体における薬剤耐性菌の検出率の国際比較

「日本の、薬剤耐性菌の検出割合は、
ヒトにおいてはカルバペネム系抗菌薬以外は
他国と比較して高いものが多い」

薬剤耐性(AMR)に起因する死亡者数の推定

・2013年現在のAMRに起 因する死亡者数は
低く見積もって70万人

・何も対策を取らない場合
(耐性率が現在のペースで増加した場 合)、
2050年には1000 万人の死亡が想定される
(現在のがんによる死 亡者数を超える)

・欧米での死亡者数は70万人にとどまり、

大半の死亡者はアフリカとアジアで発生すると推測

家畜に使う抗生剤を減らすと、
家畜、ヒトともに、耐性菌が減るというグラフも
上の資料の中にありました。

こんな資料も発見!
「薬剤耐性ワンヘルス動向調査年次報告書 2020」
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000717227.pdf

日本における、抗菌薬について、まとめられています。

どこで使われるかというと、
ヒト用抗菌薬内服用、注射、
畜産動物(牛、豚及び鶏)、
水産動物(全ての養殖魚種)、
愛玩動物(犬及び猫)、
抗菌性飼料添加物、
農薬
です。

2018 年における各分野の販売量などから
推計した抗菌薬の使用量(トン:t)は、
ヒト 582.1、
畜産動物 646.4、
水産動物 168.5、
愛玩動物 8.6、
抗菌性飼料添加物 216.7、
農薬 139.1、
合計 1761.4t であ った。

通常、私たちが食べているほとんどのものから、
抗生剤を摂っていると言ってもよいかと思います。

壮大な実験をしているわけです。

これらが、ヒトの腸内細菌に大きな影響を
与えることになります。

そして、腸内細菌は、ヒトの免疫系の最前線であり、
さらには各種ビタミン、ホルモンを生成します。

最近よく話題になる脳内物質のセロトニンは、
ヒトの腸に90%存在していて、
脳には2%しかありません。

しかし、その微量なセロトニンが、
精神に大きな影響を与えています。

つまり、腸内環境は非常に大切だとわかってきたのです。

抗生物質が、私たちの寿命に大きな役割を果たしたことは
確かですが、使いすぎていることにより、
害を及ぼしていることも確かです。

これもまた、よかれと思ってやってきたことの結果です。

となると、後世によいものだけを残したいという考え方が
そもそも間違っているのかもしれません。

あなたは、腸内環境について、どれくらい気をつけていますか。

20220607 抗生物質で第二次世界大戦に勝った_EXTRA LIFE(7)vol.3432【最幸の人生の贈り方】

自動車が誕生してから安全になるまで

■自動車事故

アメリカでは、車が運転されるようになってから
一世紀ちょっとで、四〇〇万人以上が
自動車事故で死亡している。

独立戦争までさかのぼるあらゆる戦争で
亡くなったアメリカ人の三倍が、
自動車で亡くなっているのだ。

自動車による死亡が平均寿命に与える影響が
とくに強いのは、若い人の死者が多いからだ。 

■自動車の構造と安全性

一九一七年のある日、当時二二歳の操縦練習生だった
ヒュー・デヘイヴンは、墜落事故から
奇跡的に助かった。

なぜ助かったのか?

乗り物の構造が乗員をどう包み込んで守るのか、
その方法が、高速衝突事故の死亡率に
劇的影響をおよぼすと考えた。

デヘイヴンは自宅のキッチンを墜落衝撃実験室に変えて、
床に気泡ゴムのシートを何枚も並べた。

彼は、地面に落ちたときの衝撃の力を
減らすように設計された、
実験的パッケージに入れた卵を
建物から落とし始める。

一九四〇年代には、一〇階建てのビルの屋上から、
殻を割らずに卵を落とすことができるようになった。

最終的に人間の体は、
地球上の通常の重力の二〇〇倍強い重力加速度が
かかっても生き残れると、結論づけた。

乗客がハンドルに突き刺さらないようにすることができたら、
あるいはフロントガラスから飛び出さないように
することができたら、
高速事故は死の宣告になるとはかぎらない。

■シートベルト

一九五〇年代半ば、ボルボ社は
ニルス・ボーリンという航空技術者を雇った。

サーブ社の航空機部門で緊急用射出座席に
取り組んでいた人物である。

ボーリンはすぐに、軍のパイロットが使う
安全拘束のアプローチを参考にして、
本人が「三点式」と呼んだシートベルトを
開発した。

一九五九年には、ボルボは
三点式シートベルトを標準装備した車を販売していた。

初期のデータによると、
この追加機能ひとつだけで自動車による死者数が
七五パーセントも減っていた。

この技術の広範な人道的メリットを考え、
ボルボは特許権を行使しないことにした。

しかし、明らかな死者減少記録と特許無償公開にもかかわらず、
アメリカの三大自動車会社は、
一九六〇年代前半、自社の車の設計で
安全性を優先することに抵抗し続けた。

真の変化を起こすには、
既存の問題は避けられないものではないと、
人びとを説得するところから始めなくてはならない。

そして解決策を考え出すには、
互いに互いの成果を利用し合う、
多様な才能のネットワークが求められる。

EXTRA LIFE

日本の道路交通事故の長期的推移を調べてみました。

内閣府:道路交通事故の長期的推移
https://www8.cao.go.jp/koutu/taisaku/h30kou_haku/zenbun/genkyo/h1/h1b1s1_1.html


戦後,昭和20年代後半から40年代半ばごろまでは,
死者数及び負傷者数ともに著しく増大しており,
26年から45年までに負傷者数は
3万1,274人から98万1,096人(31.4倍)へ,
死者数は4,429人から1万6,765人(3.8倍)へと
増加している。

これは,車社会化の急速な進展に対して,
道路整備,信号機,道路標識等の交通安全施設が
不足していたことはもとより,
車両の安全性を確保するための技術が未発達であったことや,
交通社会の変化に対する人々の意識が遅れていたことなど,
社会の体制が十分に整っていなかったことが
要因であったと考えることができる。

このため,交通安全の確保は焦眉の社会問題となり,
昭和45年に交通安全対策基本法(昭45法110)が制定され,
国を挙げての交通安全対策が進められた。

死傷者数を人口10万人当たりでみると,
昭和45年の962.1人から一旦急激に減少したものの,
50年代から増勢に転じ,平成13年に934.7人となった。

その後,減少に転じ,29年には461.3人となった。

次に,自動車保有台数1万台当たりでみると,
昭和43年の619.8人から,ほぼ一貫して減少を続け,
平成3年には130.6人までに減少し,その後,

横ばいとなり,29年には71.3人となった。

内閣府:交通安全対策の取組の経緯と交通事故の減少
https://www8.cao.go.jp/koutu/taisaku/r01kou_haku/zenbun/genkyo/feature/feature_01.html


●昭和50年代半ば以降の交通事故増加の主な要因

昭和50年代に入って自動二輪車乗車中の死者が
増加しはじめた。

50年代半ばになると「自動車乗車中」の死者が
増加しはじめ,特に60年代に入って急増した。

また,死亡事故件数を類型別にみると,
50年代半ば以降「正面衝突等」の死亡事故が増加した。

「自動車乗車中」の死者の増加の内訳をみると,
若者(16歳以上24歳以下)が急増したことから,
死亡事故増加の一つの背景として,
第2次ベビーブーム世代が運転免許取得年齢に達し,
運転技能が十分ではない若者の運転免許保有者数が

増加したことがあげられる。

昭和45年までは、交通安全施設や車そのものの安全性の不備が
事故の増加の原因であり、
法律の整備により、改善したものの、
第2次ベビーブーム世代が運転免許を取得したことで、
その後また増加したというのが、
日本の状況のようです。

その後、若者は減ることにより、減ってきたとのこと。

もちろん、車の安全性もどんどん向上していることも
寄与していると考えられます。。

最近では、若者が車によって、
ステータスを主張しなくなるという
価値観の変化もあると思います。

逆に注目されているのは、
高齢者の運転技能の衰えによって
引き起こされる事故です。

人口構成の変化により、
社会への影響も大きく変わります。

労働者の安全も調べてみました。
https://www.jisha.or.jp/anzen100th/nenpyou01.html


明治〜大正は、鉱山では大規模なガス炭じん爆発が相次ぎ、
繊維産業では、農村出身の女工が、粗
末極まる寄宿舎生活と深夜業を常態とする
長時間労働という苛酷な労働条件のもとでの生活を強いられた。

結核の罹患も増え、郷里に帰された罹患者から農村に広まり、
やがて「国民病」となり、国家的な問題に発展したとのこと。

明治44年工場法が公布。

昭和22年、工場法に代わり、労働基準法が制定された。

経済の復興に歩調を合わせ、
安全団体も次々設立された。

高度成長期には、技術革新があらゆる分野で進み、
新たな原材料、工法、機械設備が相次ぎ導入され、
それに伴い労働災害の大型化、
新たな職業病の発生という問題が生じた。

昭和36年には死者6,712人とピークを記録し、
死傷者数も81万人(休業1日以上)を超えた。

昭和39年、「労働災害防止団体等に関する法律」
昭和47年、「労働安全衛生法」が制定された。

労働災害は、昭和47年に労働安全衛生法が
制定されてからの10年間で、
休業4日以上の死傷者数は4分の1減少し、
死亡者数は半減した。

このあとは、健康づくりが求められるようになります。

そして現在では、仕事や職業生活に強い
不安やストレスを感じる労働者が6割を超えるなど、

メンタルヘルスへの取り組みが重要な課題となっています。

こうやって歴史をみると、
働くことそのものが危険な時代があり、
多くの人の努力によって、
死傷者数が激減した歴史があることがわかります。

もちろん、メンタルヘルスなど、
まだまだ解決すべきこともありますが、
直接的に命が脅かされることに比べれば、
かなり改善されていると考えられます。

少なくとも私は働いている時に
命の危険を感じることはなく、
それだけでもありがたいことだと感じます。

あなたは、交通環境と労働環境について、どんな改善が必要だと考えますか。

20220608 自動車が誕生してから安全になるまで_EXTRA LIFE(8)vol.3433【最幸の人生の贈り方】

世界から飢饉と慢性栄養失調が急落した

■化学肥料

ハーバーの人工アンモニアほど、
爆発的な人口増加に影響を与えた発見はない。

ハーバーが初めて実験を始めたとき、
地球上にはおよそ二〇億人が暮らしていた。

いまや七七億人だ。

その爆発的な人口増加にもかかわらず、
飢餓と慢性栄養失調の割合は急落した。

かつて一年に数千万の命を奪っていた大規模飢饉は、
すっかり撲滅されている。

現在、農地が占める割合は地表の
およそ一五パーセントである。

その多くが、化学肥料なしでは
集約農業を支えられない土壌だ。

■養鶏

二〇世紀初頭までニワトリは、
おもに肉ではなく卵を生産するために育てられていた。

多くの家庭に鶏小屋があって、
卵をあまり産まなくなった一羽が処分されたときだけ、
夕食のテーブルに鶏料理が並んだ。

一九二〇年代初頭、デラウェア州サセックス郡で、
スティールは、毎年春、彼女は地元の孵化場に
追加のヒヨコを五〇羽注文していた。

しかし一九二三年の春、孵化場のミスで
彼女の注文に余計なゼロがついてしまった。

起業家精神のない客なら、
単純に余分を返品しただろうが、
たくさんのヒヨコを目にして、
スティールの心にあるアイデアが浮かんだ。

そして新しく発明された補助飼料でヒヨコを太らせ、
一キロほどに達したとき、
三八七羽を一キロ一三六セントで売り、
かなりの利益を上げた。

五〇〇羽のヒヨコが配達された運命の日から五年後、
スティールは工場式養鶏場の先駆けを構築し、
一年に二万六〇〇〇羽を育てて売っていた。

二、三年のうちに、その数は二五万まで増えた。

すると地域の多くの農家がスティールの成功に注目し、
彼女をまねた養鶏場を始めた。

一九五〇年代までに養鶏業界は、
抗生物質を強化したビタミンDの補助飼料を与えると、
ニワトリは日光に当たらなくても
屋内で生きられることを発見した。

やがて工業規模の養鶏場では、
三万羽ものニワトリが、
羽を広げる余裕もないほど
小さな金網のおりに押し込められた。

その結果、鶏肉生産の効率が劇的に上がる。

牛肉一キロには穀物七キロが必要なのに対し、
一キロの鶏肉をたった二キロの穀類で生産できる。

現在、アメリカ人は年間平均四〇キロ以上の鶏肉を食べている。

一九七〇年、ブラジルのブロイラー肉生産量は
二一七トンだったが、
現在、およそ一万三〇〇〇トンである。

中国でもインドでも、鶏肉の生産は
過去二〇年で一〇倍以上に増えた。

地球上で最も数の多い野生の鳥は
アフリカのコウヨウチョウで、
生息個体数は一五億羽と推定されている。

一方のニワトリは、つねに二三〇億羽ほどが生存していて、
人間は毎年六〇〇億羽以上を食べている。

現在、地球上にはほかの種の鳥すべてを合わせたより
多くのニワトリがいる。

ニワトリの個体数増加率は、
過去一世紀にわたる人間のそれをはるかに上回る。

■大勝利の大きな代償

土壌の肥沃度の向上といい、
大量のニワトリを世界にもたらした工場式畜産技術といい、
二〇世紀の農業革命の影響は圧倒的だ。

五〇年前、開発途上国で暮らしている人の三分の一以上が、
慢性的に栄養失調だった。

現在、その割合は一〇パーセントあまりだ。

飢餓からの脱出は二〇世紀の大勝利のひとつだが、
代償をともなわなかったわけではない。

化学肥料の生産は、
世界の天然ガス供給量の五パーセントも消費し、
農地から流れ出す化学肥料は、
三角州近くに大規模な「死の海域」をつくり出す。

海洋生物が生き延びるのに十分な酸素を、
窒素が奪ってしまうのだ。

地球上に二三〇億羽のニワトリがいるということは、
鳥インフルエンザの新しい株をうかつに繁殖させる、
前代未聞の大規模実験を行っているも同然だ。

EXTRA LIFE

以前、農業の課題について、調べていたことがあって、
そのときに、化学肥料と有機肥料と無肥料で作られた野菜の
比較について知ったことがあります。

化学肥料と有機肥料は、もちろん野菜がよく育つのですが、
養分が多いゆえに、枯れるのではなく、
腐ってしまいます。

置いておくと柔らかくなってしまうニンジンや
葉の先が溶けてしまうほうれん草などを
見かけることがあるでしょう。

これは、肥料が多すぎて起こってしまう現象です。

有機肥料のほうが、化学肥料よりも早く
腐ってしまうこともあります。

一方、無肥料だと枯れていきます。

ほうれん草の葉は、置いておくと黄色くなります。

どちらが自然な状態か。

まあ、枯れる野菜のほうが自然だと思いますが、、、

自分でコンポストを作ってみると、
安定した状態を作るのは、
とても難しいことがわかります。

化学肥料と農薬(と種子)はセットになって、
想定した作物を作る技術が確立していますが、
有機肥料は、生産者の個別の技術によるところが
まだまだ大きいです。

地球の70億人の人口を養うためには、
化学肥料がとても重要な役割を果たしたことは
事実です。

集約型の畜産業も同じです。

大規模飢饉が起こらなくなったということは、
人類史上、すごいことではないでしょうか。

一方、
感染症を生み出すもとになる、
「死の海域」を作り出す、
農薬により生産者の健康を害する、
などなど、いいことばかりでもありません。

とても悩ましいことです。

あなたは、食べているものが、どのように作られているのか、どのように気にしていますか。

20220609 世界から飢饉と慢性栄養失調が急落した_EXTRA LIFE(9)vol.3434【最幸の人生の贈り方】

この記事は、メルマガ記事から一部抜粋し、構成しています。

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