ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力

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ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力
帚木蓬生(著)
朝日新聞出版 (2017/4/10)

帚木蓬生 ははきぎ・ほうせい
1947年、福岡県生まれ。作家、精神科医。東京大学文学部、九州大学医学部卒業。九大神経精神医学教室で中尾弘之教授に師事。1979~80年フランス政府給費留学生としてマルセイユ・聖マルグリット病院神経精神科、1980~81年パリ病院外国人レジデントとしてサンタンヌ病院精神科で研修。その後、北九州市八幡厚生病院副院長を経て、現在、福岡県中間市で通谷メンタルクリニックを開業。

シェイクスピアと紫式部についても
とりあげられていて、とてもおもしろい内容でした。

人間の本質が描き出されているものは、
時代を超えて、残っていきます。

そして、分断ではなく寛容な社会を
残していけますように。

そのために、ネガティブ・ケイパビリティは大切な能力だと思います。

ネガティブ・ケイパビリティとは

■ネガティブ・ケイパビリティ

ネガティブ・ケイパビリティ(negativecapability
負の能力もしくは陰性能力)とは、
「どうにも答えの出ない、
どうにも対処しようのない事態に耐える能力」をさします。

あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、
不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」
を意味します。

〈問題〉を性急に措定せず、
生半可な意味づけや知識でもって、
未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず、
宙ぶらりんの状態を持ちこたえるのが
ネガティブ・ケイパビリティだとしても、
実践するのは容易ではありません。

■ポジティブ・ケイパビリティ

なぜならヒトの脳には、後述するように、
「分かろう」とする生物としての方向性が
備わっているからです。

私たちが、いつも念頭に置いて、
必死で求めているのは、
言うなればポジティブ・ケイパビリティ
(positivecapability)です。

しかしこの能力では、
えてして表層の「問題」のみをとらえて、
深層にある本当の問題は浮上せず、
取り逃してしまいます。

ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力

ネガティブ・ケイパビリティとは、
「どうにも答えの出ない、対処できない事態に耐える力」
という意味です。

この概念は、もともとイギリスの詩人、
ジョン・キーツが19世紀に言及していて、
その後、イギリスの精神分析の権威、
ウィルフレッド・R・ビオンが発展させました。

本来「ケイパビリティ(capability)」とは、
才能や解決処理能力などポジティブなものを指す言葉ですが、
この場合はまったく逆で、
答えを出さないことに重きを置いています。

この言葉を生み出した、
詩人のジョン・キーツは、
25歳という短い生涯に詩を残していますが、
ネガティブ・ケイパビリティという言葉は、
詩や散文ではなく、弟たちへの手紙の中で
使われていた言葉です。

これをイギリスの精神分析医であるビオンが
とりあげて、広めました。

ビオンは、第一次世界大戦に従軍したあと、
オックスフォード大学を卒業。
教師になったあと、仕事を辞めざるを得なくなり、
医学部に入り直し、
第二次世界大戦では、軍医として従軍。
その後、50歳で精神分析家となりました。

第二次大戦で、将兵がかかる最大の病気は
精神疾患であり、
精神疾患にかからないようにする予防と、
罹患者の治療、リハビリテーションが
大戦後の精神医学の方向性を位置付けたそうです。

そして、患者の精神分析を行ううえで、
大切なことが、ネガティブ・ケイパビリティで、
「記憶もなく、理解もなく、欲望もない」状態で
培われると述べたのです。

ふりかえってみると、
現代はVUCAの時代と言われながらも
ポジティブ・ケイパビリティに偏っていて、
すぐに分かることのできる理解力、
すぐに問題を解決する行動力に
重きを置き過ぎているのではないかと感じています。

しかし、本質を理解するのに、
そんなに単純な世界なのでしょうか。

性急に答えを出すことが
本当に大切なのでしょうか。

あえて、すぐに答えを出さないで、
浮かび上がってくるのを待ってみる
ということを試してみてもよいのではないかと
思います。

あなたが、持ち続けている問いは、なんですか。

20220720 ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力(1)vol.3475【最幸の人生の贈り方】

教育の真髄とは

■現代教育が養成するポジティブ・ケイパビリティ

教育は一見すると、分かっている事柄を、
一方的に伝授すればすむことのように思えます。

幼稚園から大学に至るまでの教育に共通しているのは、
問題の設定とそれに対する解答に尽きます。

平たい言い方をすれば、問題解決のための教育です。

しかも、問題解決に時間を費やしては、
賞讃されません。

なるべくなら電光石火の解決が推賞されます。

問題解決が余りに強調されると、
まず問題設定のときに、
問題そのものを平易化してしまう傾向が生まれます。

単純な問題なら解決も早いからです。

このときの問題は、複雑さをそぎ落としているので、
現実の世界から遊離したものになりがちです。

言い換えると、問題を設定した土俵自体、
現実を踏まえていないケースが出てきます。

こうなると解答は、そもそも机上の空論になります。

教育とは、本来、もっと未知なものへの畏怖を
伴うものであるべきでしょう。

この世で知られていることより、
知られていないことのほうが多いはずだからです。

■江戸時代の素読

江戸時代、武士の子弟が小さい頃から、
返り点をつけただけの漢籍を
内容がよく分からないまま素読させられたのは、
現在の教育とは正反対の極にあります。

子供は何のために素読をするのか、
まず分かりません。

ただ声を出すだけで、意味も分からないままです。

しかし何十回と繰り返していくうちに、
漢文独特の抑揚が身についてきます。

漢字の並びからぼんやり意味が摑めるようにもなります。

この教育には、教える側も教えられる側にも、
分からないことへのいらだちがありません。

分からなくてもいいのです。

子供は、言われるがままに何回も音読を繰り返します。

一方の教える側も、手取り足取りは教えません。

ゆっくり構えています。

その漢籍が自分にまだ理解できないような、
深い内容を含んでいるのかもしれません。

教える内容を、教える者自身が
充分に分かっていない可能性もあります。

それでも教える素材に敬愛の念を
いだいているのは確かです。

ここには、そもそも土俵としての問題設定がありません。

ひたすら音読して学ぶだけです。

素養や教養、あるいはたしなみは、
問題に対して早急に解答を出すことではありません。

むしろ反対かもしれません。

解決できない問題があっても、じっくり耐えて、
熟慮するのが教養でしょう。

■解決できない問題に向かうために

この教育の場では、そもそも解決のできない問題など、
眼中から消え去っています。

いや、たとえ解決できても、即答できないものは、
教えの対象にはなりません。

教育者のほうが、教育の先に広がっている
無限の可能性を忘れ去っているので、
教育される側は、閉塞感ばかりを
感じとってしまいがちです。

学習の面白さではなく、白々しさばかりを感じて、
学びへの興味を失うのです。

学べば学ぶほど、未知の世界が広がっていく。

学習すればするほど、
その道がどこまでも続いているのが分かる。

あれが峠だと思って坂を登りつめても、
またその後ろに、もうひとつ高い山が見える。

そこで登るのをやめてもいいのですが、
見たからにはあの峰に辿りついてみたい。

それが人の心の常であり、学びの力でしょう。

つまり、答えの出ない問題を探し続ける挑戦こそが
教育の真髄でしょう。

■研究に必要なもの

研究に必要なのは「運・鈍・根」と言われると、
私は深く納得します。

「運」が舞い降りてくるまでには、
辛抱強く待たねばなりません。

「鈍」は文字どおり、浅薄な知識で
表面的な解決を図ることを戒めています。

まさしく、敏速な解決を探る態度とは
正反対の心構えです。

最後の「根」は根気です。

結果が出ない実験、出口が見えない研究を
やり続ける根気に欠けていれば、
ゴールに近づくのは不可能です。

運・鈍・根は、ネガティブ・ケイパビリティの
別な表現と言っていいのです。

つまり、今すぐに解決できなくても、
何とか持ちこたえていく、
それはひとつの大きな能力だと、
大人から説明された子供は、
すっと心が軽くなるのではないでしょうか。

ネガティブ・ケイパビリティ

落第することに寛容な社会であれば、
落第はアリだと思います。

同様に飛び級もあってもよいでしょう。

ただし、どの教科も同じように得意ということも
ないでしょうから、どう判断するのか。

同年代で同じ課題に取り組む、
同じ環境に身を置くことのメリットも
あるとは思います。

一方、高等教育は、年齢のしばりは
あまり重要ではなく、
年齢の多様性があったほうが、
学びが深くなるかもしれません。

教育をどこまで個別化し、どこまで標準化したほうがよいのか、
もっと議論されてもいいのではないでしょうか。

今は、ネット環境があれば、
無料でいくらでも学ぶことができるので、
いいのかしら?

私は小学校の先生は好きだったけれど、
授業そのものは退屈でした。

しかし、その退屈さを周りに広げるつもりはなく、
先生が授業を進めやすいように、
かなり気を遣っていました。

他の人が誰もが答えられないけれど、
授業は先に進めたい、
そんな先生の意図を汲んで、
そういう時に手を挙げる。

自分が勉強したいことは、
夜、自習すればいい。

しかし、そんなことをすれば、
より学校の授業は知っていることばかりになります。

つまり、学校の授業は、答えのあることばかりを
扱っているから、こういうことになるのです。

今は、「アクティブ・ラーニング」が取り入れられて、
授業の質は高まっているのでしょうか。

自分たちで問題に対して、
解決策を見出すのはとてもよいことだと思いますが、
願わくば、解決策を見出すことのみを目的として、
問題を単純化して、浅はかな解決策で満足してしまう習慣は
身につけさせないようにしてもらいたいです。

ベイビーステップは、最初の一歩として必要だけれど、
本質的な変革は、ベイビーステップだけでは
成り立ちません。

先は見えないけれど、地道な一歩一歩が必要です。

そういうのを支えるのは、
1年か2年で変わる学校の担任ではなく、
長期的で子どもを支える親の役割なのかもしれません。

不登校の子どもを学校に押し戻すのではなく、
子どもの居場所を作ってやる。

これは、親にしかできないことです。

そんなときに必要なのが、ネガティブ・ケイパビリティです。

著者が婦人公論に書いていたこちらの記事の内容が
とてもよかったので、紹介しておきます。

(4ページ目)作家・精神科医の帚木蓬生 白血病になって意識した「解決できない事態に耐える力」を身に付ける方法 目薬・日薬・口薬が弱った心に効く|健康|婦人公論.jp
(4ページ目)『閉鎖病棟』などの小説で知られる、作家で精神科医の帚木蓬生さん。世の中に立ちこめる不安な空気に押しつぶされないためにも、ある「能力」を身につけることの重要性を説きます。自分らしく生きることにもつながる...

■弱った心に効く「目薬」「日薬」「口薬」

私はネガティブ・ケイパビリティの考え方とともに
大切にしていることがあります。

それは3つの「薬」です。

いつもあなたのことを見ているけれど、
こんなに問題を抱えながら本当によくやっていますね、
という「目薬」。

状況を見守り、必要に応じてサポートしていく方法です。

2つめは、人間の小さな脳みそでいくら考えても
答えが出ないことがある、
それは日々が解決してくれるという「日薬」。

時間をかけて何とかしていくうちに、何とかなります。

3つめは、「がんばって」とは決して言わずに、
「めげずに、よくここまで来ましたね」と
声をかける「口薬」です。

悩みや不安があっても焦らず、悩めばいい。

ハラハラ、ドキドキの状態もまた
楽しんでみてはどうでしょうか。

大局に任せれば、自然と出口が見えてきます。

そして、この本の最後に紹介されていたのが、
ルワンダの内乱で、両親から捨てられた、
ろうあの子供たちの孤児院の話です。


米国の子供たちからの贈り物を
袋から取り出しては喜びます。

そのなかの一人が、すべての贈り物を出しても
まだ袋の中を探しています。

そして、袋から取り出しのは、手紙。

「こんにちは。ぼくの名前はヤコブです。
十歳です。ミネソタに住んでいます。
地図を出して、あなたが住んでいる場所を見つけました。
この袋の中に、いろんな物を詰めました。
そして詰めている間中、あなたのことを思っていました。
どうかこの贈物をあなたが気に入ってくれますように、
そしてどうぞよい一日を。

あなたの新しい友だち、合衆国のヤコブより。」

その男の子は手紙の一語一語を食い入るように見つめ、
何度も何度も確かめたあと、
自分の胸に強く抱きしめ、泣き出したのです。

男の子が必要としていたのは、
他の誰かが自分のことを思ってくれていると、
知ることだったのです。

おそらく、これは世界中のどの子供も、
必要としていることではないかと女史は言います。

共感の力こそが人生を変えるのだと。

このエピソードを読んで、深く反省しました。

新しく寄付を始めた、アフリカのトーゴの女の子に
手紙を書いていないのを思い出したからです。

「目薬」「日薬」「口薬」にお金は必要ありません。

誰でもできることです。

あなたは、子どもたちが大人になるまでにどのような力を身につけてほしいと考えますか。

20220721 教育の真髄とは_ネガティブ・ケイパビリティ(2)vol.3476【最幸の人生の贈り方】

この記事は、メルマガ記事から一部抜粋し、構成しています。

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