自分の頭で考える読書 変化の時代に、道が拓かれる「本の読み方」

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自分の頭で考える読書 変化の時代に、道が拓かれる「本の読み方」
荒木博行(著)
日本実業出版社 (2022/1/28)

荒木 博行 あらき・ひろゆき
株式会社学びデザイン代表取締役社長。住友商事、グロービス(経営大学院副研究科長)を経て、株式会社学びデザインを設立。書籍要約サービスのフライヤーやNOKIOOなどスタートアップ企業のアドバイザーとして関わるほか、絵本ナビの社外監査役、武蔵野大学で教員なども務める。音声メディアVoicyの「荒木博行のbook cafe」やPodcast「超相対性理論」も好評を博している。著書に『藁を手に旅に出よう』(文藝春秋)、『見るだけでわかる! ビジネス書図鑑』シリーズ(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『世界「倒産」図鑑』『世界「失敗」製品図鑑』(ともに、日経BP)など多数。 

この本を読んで、たくさんの本を
ウィッシュリストに追加しました。

知らなかったけど読んでみたい本、
敬遠していたけれど読んでみようかと思った本、
見ようと思った映画、
などなど、リストを更新しました。

ハンナ・アーレントは、読書会の課題本として
『人間の条件』を手にとったことがありますが、
その本の読みづらさに、読破は難しいと思ったまま、
読書会以降、読むことなく、売ってしまった記憶が
あります。

いろいろなところで、引用されているけれど、
手に取ろうと思ったことはなかったのですが、
『エルサレムのアイヒマン』はとても気になりました。

自分の頭で考える読書

■どのような本を選ぶべきか

●「問いの発見」

もし「問い」そのものが新たなもの、
つまり今まで考えたこともなかった「問い」を
提示するものであれば、
それは「問いの発見」とラベリングされる
カテゴリーの本になります。

●「答えの発見」と「既知のリマインド」

一方で、「問い」そのものは自分にとって
何度か考えたものである本は、
「答え」の種類によってもう一段階、分解できます。

その既存の問いに対して、
その本が提示する解答が新たなものであれば、
「答えの発見」、
既存の答えを提示するものであれば
「既知のリマインド」と
ラベリングすることができます。

●価値のある本
本は「問い」と「答え」が自分にとって
新しいかどうかを整理することで、
3つのカテゴリー、つまり
「問いの発見」「答えの発見」「既知のリマインド」
に分けることが可能になります。

本当に自分にとって大切な「問い」や「答え」を
発してくれている本に向かい合うことのほうが、
年に300冊読むよりよほど価値のあることだからです。

■「ネガティブ・ケイパビリティ」

私たちは、日常的に「ポジティブ・ケイパビリティ」、
つまり問題発見・解決能力を駆使しています。

問題が起きれば、何が本質かをすぐに見極め、
打つべき手をしっかり打つ。

この手のポジティブな能力は否が応でも
鍛えられていきます。

しかし、それが行きすぎて、
今解決すべきではないような問題ですら、
焦って拙速に解決策を出して
しまっていないでしょうか?

そして、その焦りがゆえにまた余計な問題を
発生させていないでしょうか?

このような過度な問題発見・解決への
傾倒に対するアンチテーゼとして、
「ネガティブ・ケイパビリティ」、つまり、
「問い」を解決せず、ホールドしておく能力の必要性が
認識されてきたのです。

私たちは「問い」を抱え、育てることに対して
努力しなくてはなりません。

「答え」を出す努力ではなく、
「答え」を出さない努力、
そして「問い」を忘れない努力をするのです。

「これはいい本だ!」と熱狂したら、
そこで本を閉じるのではなく、懐疑を見出してみる。

そして、そこで生まれた「問い」に向き合いつつ、
あえて「答え」を出さずに保留する。

そして、やがて来る「答えが降りてくる瞬間」
を辛抱強く待つのです。

これによって、私たちは「読書」を通じて
より確固たる自我を築くことが
できるのではないでしょうか。

■懐疑を忘れた「陳腐な悪」の恐ろしさ

「問い」を持ち、それに対して考え続けること。

この重要性を語るにあたり、
触れておきたい本があります。

それはハンナ・アーレントの
『エルサレムのアイヒマン』です。

ユダヤ人を強制収容所へ送り込む責任者だった
元ナチス親衛隊中佐、アドルフ・アイヒマンの
戦争犯罪を裁くエルサレム法廷の様子を描き、
刊行当時、多くの物議を醸しました。

では、なぜ物議を醸したのか。

それは、アーレントがこの裁判そのものの中立性に対して
批判したこと、
ホロコーストの実行において責任ある立場にいた
アイヒマンの行った行為を
「陳腐な悪」と結論づけたことにあります。

当時、この裁判を待ちわびていたユダヤ人は、
アイヒマンは死刑に値する邪悪な存在であり、
その邪悪さによって死刑に処されることを
渇望していました。

しかし、アーレントは言います。

彼は邪悪ではない、
ただ思考していなかっただけの凡庸な人物なのだと。

この本で彼女が明らかにしたのは、
アイヒマンは凡庸な人物で、
組織内においては優秀な実務家であったということです。

巻末にて、アーレントがアイヒマンに
語りかける一節を引用しましょう。

「(中略)議論を進めるために、
君(※アイヒマン)が大量虐殺組織の従順な道具となったのは、
ひとえに君の不運のためだったと仮定してみよう。

その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、
それゆえ積極的に支持したという事実は変わらない。

というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。

政治においては服従と支持は同じものなのだ。

(中略)これが君が絞首されねばならぬ理由、
しかもその唯一の理由である。」

つまり、どれだけ組織的な圧力があったとしても、
そこに無批判・思考停止で服従してしまうことは、
支持したことと同じ罪になる、ということです。

この「思考停止は罪になりうる」というメッセージを、
時代を経て今日を生きる私たちも、
重たく受け止めるべきでしょう。

多読であればよいというものではありません。

よい本を読み、その思想に熱狂しつつも、
「懐疑」を忘れない。

そして、そこから生まれた「問い」を抱え続け、
そのモヤモヤとした状況に耐えうる力を鍛えること。

それこそが、私たちが「読書」をするときに
忘れてはならない姿勢なのでしょう。

自分の頭で考える読書

この本を読んで、たくさんの本を
ウィッシュリストに追加しました。

知らなかったけど読んでみたい本、
敬遠していたけれど読んでみようかと思った本、
見ようと思った映画、
などなど、リストを更新しました。

ハンナ・アーレントは、読書会の課題本として
『人間の条件』を手にとったことがありますが、
その本の読みづらさに、読破は難しいと思ったまま、
読書会以降、読むことなく、売ってしまった記憶が
あります。

いろいろなところで、引用されているけれど、
手に取ろうと思ったことはなかったのですが、
『エルサレムのアイヒマン』はとても気になりました。

ユダヤのホロコーストに限らず、
人類が大虐殺をおこなった事例は、
歴史を振り返れば、いくつも出てきます。

自分がその場にいたとしたとき、
加害者側、被害者側それぞれの立場で、
「自分は、何を考え、何を行動できるのか」

この問いが何十年も私の頭の中にあります。

「誰かを悪者にすることで、解決するのか」
「自分の中に同じ悪があるのではないか」
「被害者になったとして、
怒りや憤りや悲しみを越えることができるのか」

疑問は尽きません。

だから、私が大切にしている本は、
『夜と霧』であり、
『それでも人生にイエスと言う』であり、
『生かされて』
なのです。

そして、無念にもこの人生を
まっとうすることができなかった人を思うと、
生きている自分が文句を言っている場合ではないと
気付かされるのです。

ということで、まずは、『エルサレムのアイヒマン』を
手に取る前に、
映画『ハンナ・アーレント』を観てみようと思いました。

あなたは、どのカテゴリーの本を、よく読んでいますか。

20220711 自分の頭で考える読書 変化の時代に、道が拓かれる「本の読み方」vol.3466【最幸の人生の贈り方】

この記事は、メルマガ記事から一部抜粋し、構成しています。

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