アダム・スミス 共感の経済学
Adam Smith: What He Thought, and Why it Matters
ジェシー・ノーマン(著), 村井 章子(翻訳)
早川書房 (2022/2/16)
ジェシー・ノーマン JESSE NORMAN
1962年生まれ。イギリス保守党の国会議員で、2019年に財務担当補佐官を務める。オックスフォード大学で古典を学び、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)で哲学の修士号と博士号を取得。政界に入る前は、共産主義の東欧で教育プロジェクトを運営し、バークレイズ銀行で管理職を務めた。UCL名誉研究員、国立経済社会研究所理事などを歴任。これまでの著書に、「保守思想の父」として知られるエドマンド・バークの評伝(未邦訳)などがある。
村井章子 むらい・あきこ
翻訳者。上智大学文学部卒業。主な訳書に、カーネマン『ファスト&スロー』、カーネマン、シボニー、サンスティーン『NOISE』(以上早川書房刊)、スミス『道徳感情論』(共訳)、ミル『ミル自伝』、フリードマン『資本主義と自由』、バナジー&デュフロ『絶望を希望に変える経済学』など。
アダム・スミスが生きていれば、
『国富論』も『道徳感情論』も
改訂を続けていたに違いありません。
そして、一生かけて書き上げようとしていた
「法と統治の原理」について、
大著を書き上げていたでしょう。
商業社会は、確実に世界から貧困を減らしましたが、
一方、行き過ぎによる弊害もあります。
それらは、私たちが作ってきたものでもあります。
今、改めて、私たちは、何を大切にするのか、
問うことがとても重要だと思いました。
とても良い本だと思います。
出生から少年時代
■アダム・スミスが生まれるまで
アダム・スミスが生まれたのは
一七二三年六月五日か、それより前である。やはりアダム・スミスという名の父親は、
息子の誕生より五カ月早く、
わずか四三歳で亡くなっている。大臣秘書や軍関係の仕事を経て
カーコーディの税関監督官にまで出世した人物である。父アダムは二度結婚している。
最初の妻リリアス・ドラモンドは
エジンバラの名家の娘で、
一七〇九年に息子ヒューを産んでいる。われらがアダム・スミスの異母兄に当たるわけだ。
(アダム・スミスの)一四歳ほど年上だった。
だが結婚一〇年足らずでリリアスは死去し、
父アダムは幼い一人息子を抱えて
寡夫になってしまう。父アダムがカーコーディに赴任した一七一四年には、
この地方の経済は衰退気味だった。監督官の収入は貿易から上がる
手数料に依存していたから、
経済の衰退は収入を直撃することになる。だがこの町は一つの途方もない幸運を
父アダムにもたらす。良家の娘マーガレット・ダグラスと
引き合わせたのである。マーガレットは一七二〇年に父アダムと結婚したが、
それから三年足らずで夫はこの世を去ってしまう。死因はわかっていない。
彼の死は妊娠中の妻にとっても、
夫の連れ子にとっても深刻な打撃だった。■大学に入るまで
アダム・スミスは謹厳な若者に成長した。
法律や商業や経済的自立の問題を考えることに
長い時間を費やした。そして小さな町カーコーディの税関監督官ではなく、
全スコットランドの税関を束ねる税関委員に
任命されるのである。若い母親にとって生活は楽ではなかった。
アダムは病気がちな子供だったし、
ヒューも頑健とは言えない。なにしろ当時は赤ちゃんの四人に一人が
出生時か乳児のうちに死ぬ時代である。生活は苦しかったが、マーガレットが
アダムに惜しみなく愛情とこまやかな配慮を
注いだことはまちがいない。ヒューはパースの寄宿学校に入った。
そして父親やスミス家の他の親戚と同じコースをたどり、
地元の税関に勤める。一七五〇年に四一歳で亡くなるまでそこで働いた。
一方アダムは、カーコーディの公立学校へ通う。
カーコーディの公立学校では、友達にも恵まれた。
筆頭に挙げられるのが、
キャプテン・ジェームズ・オズワルドの息子の
ジェームズ・オズワルドである。八歳年上で、のちに下院議員となり、
生涯にわたってスミスの友人であり続けた。カーコーディという土地柄自体も
若きアダムに教育を授けてくれたことはまちがいない。くわしく知ることができる程度に小さい町だが、
けっして世界から取り残されているわけではなく、
多くの意味で多様だった。カーコーディは国際的な港であったから、
貿易についてのさまざまな情報や知識が
あふれる町でもあった。■イングランドとスコットランド
一七三七年一〇月にアダム・スミスは
グラスゴー大学に進学する。当時は一七〇七年のイングランドと
スコットランドの合同法がさかんに議論された。スコットランド経済は
一八世紀に入る頃から低迷していた。製造業はほとんど存在せず、
経済規模は小さく、
圧倒的に農業が中心である。一六九〇年代にはたびたび凶作に見舞われて
大勢が餓死している。移住を決意する人が非常に多く、
一六五〇~一七〇〇年の五〇年間で
一〇万のスコットランド人が
アイルランド北東部のアルスター地方に移住した。自由貿易など影も形もなく、
国家が貿易を管理していた時代にあって、
スコットランドは自立するには
経済力も軍事力も乏しかったのである。とりわけ、イングランドが課す高い関税と
航海法の規定の前で
スコットランドは無力だった。一七〇〇年時点のスコットランドは、
経済が脆弱だったこともあって、
政治的にも弱い立場だった。
狭い国土が北のハイランド、西のアイランズ、
南のローランドに分かれ、
それぞれが地理的条件のみならず言語までちがう。イングランドの人々は、
スコットランドとの統合を深めることには
長らく反対だった。いや反対とは言わないまでも、よくて無関心だった。
両国の合同を推進する試みが
一七世紀に何度か行われたものの、
すべて失敗に終わっている。だが一七〇五年になる頃には、状況が変化していた。
合同法はついに一七〇七年一月一六日に
賛成一一〇反対六七という大差で
スコットランド議会を通過し、
グレートブリテン連合王国が誕生する運びとなる。スコットランドにとって合同の最大の利得は、
両国が単一の経済主体となることである。イングランドが急拡大する植民地貿易によって
築き上げた共同市場の恩恵に、
スコットランド商人も与ることができる。外国の競争相手からは関税で保護され、
長い間軽蔑してきた航海法に
今度は守られる立場になったのである。こうしたわけでアダム・スミスの若かりし時代は、
スコットランドの痛みを伴う経済の大転換と
調整と不確実性のうちに過ぎていったのである。
私自身は、『国富論』は未読です。
『道徳感情論』は、読んでよかったと思う本の一つで、
今では数少なくなってしまった、
手元に置いてある紙の書籍の1冊です。
『道徳感情論』は、2016年5月のメルマガで、
6回にわけてとりあげました。
著者によると、アダム・スミスは、
ケインズをおさえて、引用回数の最も多い経済学者だ
とのことです。
また、経済分野における「偉人」として引用される回数は、
マルクス、マーシャル、ケインズを足し合わせるより多く、
現代の経済学者の合計の3倍を上回るとのこと。
偉人ですね〜〜〜
著者のいうところの
「今日の世界が抱える課題に取り組むにあたっては、
スミスの思想を広く深く理解することが欠かせない。」
ということにとても興味をもちました。
そのためにも、どういう背景が、
アダム・スミスの思想を生み出したのか、
知っておくことは大切で、
その思想が現代の課題解決に役立つなら、
学び直す意義は大いにあります。
とても楽しみにしています。
メルマガで数回に分けてとりあげます。
カーコーディという町は、ここ。
エディンバラやグラスゴーに比べると小さく、
現在では、スコットランドで12番目に
人口の多い地域だそうです。
現在は工業都市だということなので、
アダム・スミスがいたころとは
かなり変わっているのでしょう。
なにしろ300年前ですから。
しかしながら、港に面しているところは、
町の大きな特徴だと思いますし、
ここで、貿易の情報や知識を得たことは
思想を形成するうえで、
大きな影響を与えたに違いありません。
あなたは、アダム・スミスについて、どんなことをご存知ですか。
あなたは、アダム・スミスについて、どんなことをご存知ですか。