OPEN(オープン):「開く」ことができる人・組織・国家だけが生き残る 

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OPEN(オープン):「開く」ことができる人・組織・国家だけが生き残る 
Open: The Story Of Human Progress

ヨハン・ノルベリ(著), 山形浩生(翻訳), 森本正史(翻訳) 
ニューズピックス (2022/4/27)

ヨハン・ノルベリ Johan Norberg
歴史学者。米ワシントンDC拠点のシンクタンク、ケイトー研究所シニアフェロー。
1973年スウェーデン・ストックホルム生まれ。ストックホルム大学にて歴史学の修士号を取得。ブリュッセル拠点のシンクタンク、欧州国際政治経済研究所(ECIPE)シニアフェローなどをへて現職。
著作は25か国語に翻訳され、『In Defense of Global Capitalism』(未邦訳)、『進歩:人類の未来が明るい10の理由』(晶文社)は各国で絶賛をあびた。
スティーブン・ピンカー、マット・リドレー、故ハンス・ロスリング(『ファクトフルネス』著者)らと並んで、歴史学、経済学、統計学、進化生物学など幅広い領域の最新知見をもとに楽観的な未来を構想する、現代を代表するビッグ・シンカーのひとりである。 本書『OPEN』で、前著『進歩』に続いてエコノミスト誌ブック・オブ・ザ・イヤー賞を連続受賞する快挙を達成。

山形浩生 やまがた・ひろお
評論家、翻訳家、開発コンサルタント。2018年まで野村総合研究所研究員。開発援助関連調査のかたわら、経済、環境問題からSFまで幅広い分野での翻訳と執筆を行う。東京大学大学院工学系研究科都市工学科修士課程およびマサチューセッツ工科大学不動産センター修士課程修了。
著書に『新教養主義宣言』『要するに』(共に河出文庫)、『経済のトリセツ』(亜紀書房)など。訳書にピケティ『21世紀の資本』(みすず書房)、クルーグマン『クルーグマン教授の経済入門』(ちくま学芸文庫)、ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(講談社学術文庫)、ノルベリ『進歩』(晶文社)ほか多数。

森本正史(もりもと・まさふみ)
翻訳家。山形浩生との共訳書にピケティ『21世紀の資本』、トゥーズ『ナチス 破壊の経済』(以上みすず書房)、ウェスト『スケール』(早川書房)、ケンリック『野蛮な進化心理学』(白揚社)ほか多数。

さまざまな観点で歴史を振り返ることができ、
とても学びになりました。

ぜひ手に取って読んでみてください。

OPEN_「開く」ことができる人・組織・国家だけが生き残る

■協力とその目的

私の主張は、オープンな制度の下なら
人々は、その人格的な傾向などがどうあれ、
作り出すより多くの問題を解決し、
ちがった性質の人々が出会う可能性を高め、
そしてその思想や仕事がお互いを
豊かにする可能性も高まるのだ、ということだ。

洞察の数、アイデアや解決策の組み合わせは、
潜在的に無数にある。

あらゆる知識を使い、
あらゆるアイデアを試す唯一の方法は、
みんなの好きにさせて、
自由に協力しやりとりができるようにすることだ。

が、落とし穴がある。

調和ある協力という美しい能力を
ヒトが発達させたのは、殺して盗むためだった。

人々が協力を始めたのは、
それが他の動物や他の人間集団に対する競争優位を
与えてくれたからだ。

そしてあらゆる集団は、収奪品を享受したいが
その生産には貢献しない連中からの自衛手段を
必要とした。

したがって、ヒトは「オレたち」と「ヤツら」を
区別する方法を学んだ。

人間は交易者である一方で、部族人でもある。

片方は、新しい機会や新しい人間関係、
相互に利益のある新しい取引を行うための、
プラスサムのゲームを見つけさせてくれる。

もう片方は、人々にゼロサムゲームに用心しろと伝える。

ゼロサムゲームでは、他人が得をするのは
こちらが犠牲になる場合だけだからだ。

これが「オープンとクローズド」の戦いとなる。

これは二つのちがう集団の間での戦いではない。

むしろみんなの心の中で、
常に続いている戦いなのだ。

OPEN(オープン):「開く」ことができる人・組織・国家だけが生き残る 

「はじめに」で紹介されていたのは、
5000年前に亡くなった男性についてでした。

その持ち物から、
5000年前でも、靴作り職人、石刃加工者、
その他の道具加工などの専門家の存在、
それも広い地域に広がって存在していることを
伺わせる一方、
敵との対決で殺されたという事実が
紹介されていました。

これが
「オープンとクローズド」の戦いを表しています。

特殊な戦いではなく、
私たちの中にも普通にもっている思考と行動だと
考えます。

誰でも、オープンに考えることができ、
同じように、「オレたち」と「ヤツら」に
分けることをしています。

それぞれが、ある場面では有利に働き、
不利に働いてきたからです。

著者がどのように歴史を眺め、
そしてこれからの世界がどのようにあったらよいか、
と考えているのか、
読むのを楽しみにしたいと思います。

メルマガで数回に分けてとりあげます。

あなたは、どんなときにオープンになれますか。

20220507 OPEN_「開く」ことができる人・組織・国家だけが生き残る(1)vol.3401【最幸の人生の贈り方】

交流断絶や保護により衰退した地域の末路

■歴史にみる開放的な文化とタスマニア化した国

最も急速な経済技術進歩は常に、
他人との深く長距離の商業的なつながりを作った
開放的な文化で生じた。

フェニキア人や、中世後期のハンザ同盟のような
各種交易都市、アテネやヴェネツィア、
シンガポール、香港のような都市国家、
オランダ、イギリス、アメリカ、
明治維新以後の日本などの国、
モンゴル侵攻前のイスラム世界、
アショカ大王時代のインドと1990年改革以降のインド、
宋代や毛沢東死後の中国。

同時に、自発的にタスマニア化した国も
常に存在してきた。

他のギリシャの都市国家とちがい、
軍国主義のスパルタ人は交易を禁じ、
必要な生産者の征服と奴隷化に頼った。

明代の中国は外国貿易を禁じたし、
日本も徳川将軍の支配下では鎖国した。

現代ではアルバニアや北朝鮮のような共産主義国は
他の世界から孤立している。

こうした場所はどこも、
古代タスマニアのようなことにはならなかった。

その国内人口はどれも、
分業を維持できるくらいには多かった──
そして他の世界との接触が侵略、政府間取引、
誘拐、諜報に限られたとしても──
世界が存在することは知っていたし、
他のところでのイノベーションを収奪はした。

それでも、あらゆる事例は
青銅器時代後期の崩壊やローマ帝国崩壊に
近いものにつながっている。

生活水準の停滞と低下だ。

OPEN(オープン):「開く」ことができる人・組織・国家だけが生き残る 

タスマニアとフエゴ諸島については、
マット・リドレーの『繁栄』で
紹介されていたものです。

日本の鎖国について、どのように評価するか。

確かに、開国により、
産業革命や新たな経済システムが導入されました。

これは間違いなく、交易と交流によるものです。

一方、明治初期に日本を訪れた外国人も
日本文化について、大きな驚きをいくつも
表明しています。

日本の浮世絵は、西洋の印象派に大きな影響を与えました。

また、町民でも文字が読める識字率の高さも
その一つでした。

都市の衛生状況は、ヨーロッパ諸国よりも
よかったと思います。

日本古来の建築技法、工芸などは、
現在でも海外から賞賛を浴びているものです。

継承・発展できたものと
外部から大きく立ち遅れたものの違いはなにか。

平和な社会では、戦争に関する戦略、技術は
発展しないのは、当たり前です。

一方、産業技術に関してはどうか。

日本が、明治以降、人口を増やすことができたのは、
外国の資源を使えるようになったからです。

自分たちの国土で支えられる以上の人口が
いてもよいのか。

これが今は、持続可能性ということで、
地球全体の課題になっていると考えます。

保護することにより競争欠如して衰退するとしたら、
私たちは、いつまでも競争する必要があるのか。

新たな疑問もでてきます。

あなたは、政府による保護は、どんな場合に必要だと考えますか。

20220508 交流断絶や保護により衰退した地域の末路_OPEN(2)vol.3402【最幸の人生の贈り方】

移民によって作られた世界

■ヨーロッパ人の起源

ヨーロッパの他の狩猟採集民たちも、
分析してみると肌は黒く、目は青か緑だ。

どうやら西欧白人の白い肌は、
農業の発達以後、魚の脂などのビタミンD源を
十分に食べなかったという程度の
人種的な意味しかないらしい。

そしてその後、薄い肌の色素は
高緯度地域で急速に広がった。

そのほうが日光を吸収しやすいからだ。

後に二つ大きな移民の波があって、
ヨーロッパの大陸と住民の肌の色を変えた。

まず、新石器時代初期、紀元前6000年頃に
農業が急速に広がった。

考古学者たちは、これが文化伝搬により
起きたと考えていたが、
最近のDNA試験により、
移民が普及の原因だったことがわかった。

農民たちがアナトリア半島、現在のトルコで増えると、
その多くは新しい肥沃な土地を求めて北に向かい、
南欧に移住した。

森を伐採し、革新的な技術で土地改良をして、
地元の狩猟採集民たちと混血を始めたのだ。

紀元前5000年頃、こうした移住農民たちは
ドイツ北部にたどりついた。

その頃には、ヨーロッパの文化と遺伝子構成を、
狩猟採集民の群れから農民たちの大陸に
変えてしまった。

第2波は、青銅器時代の初期に起きた。

紀元前3000~2500年だ。今回の移民は東からきた。

ロシアとウクライナのステップ(草原)地帯、
カスピ海と黒海の北方に、
ヤムナと呼ばれる人口群があった。

彼らは遊牧民で、ウマで家畜を草地に放牧していた。

気候変動のせいでステップ地帯が
寒く乾燥してきたせいか、彼らは5000年前に、
波のように東欧と中欧に移住しはじめた。

やがて新しい草地を求めて
ドイツとスカンジナビアに到達した。

新しい技術であるウマと車輪をもたらし、
またいまのほとんどのヨーロッパ言語の先祖となった、
新しいインド=ヨーロッパ言語も持ち込んだ。

ヤムナ人たちは元のヨーロッパ人とは外見がちがっていた。

背が高く、肌の色も薄い。

またウシなどの家畜文化には
とても有益な突然変異も持っていた。

乳に含まれるラクトース(乳糖)を消化できたのだ。

ヨーロッパこそは最初の人種のるつぼだった。

私自身のDNAを見ると、かなり典型的な北欧系の、
アフリカ狩猟採集民、中東農民、
ユーラシアステップ地帯の遊牧民の混合で
あることがわかる。

また0・9%のデニソワ人で、
2・4%ネアンデルタール人が入っている。

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日本人の由来について、復習します。

母方の祖先は、「ミトコンドリアDNA」
父方の祖先は、Y染色体
でたどることができます。

以下、
茂木誠 『世界史とつなげて学べ 超日本史』
より。

母系のミトコンドリアDNAから見るかぎり、
1.日本人は「北東アジア人」の一つである。
2.アイヌ人、本土日本人、沖縄人は同じ系統に属す。
ということになります。

また、Y染色体から見ると、
先住民にあたるD2(縄文系)が40%も残っています。

また、大陸からの侵入経路にあたる九州と関東を比較しても、
O2(弥生系)とD2の割合に大きな違いはありません。

つまり、O2の日本列島侵入はゆっくりした、
穏やかなものだったと推定されます。

弥生人は男だけがやってきたのではなく、
女性も多く、縄文系の男たちと
通婚していたのです。
 
さらに面白いのは、
現在でも平野部ではO2(弥生系)のY染色体が多く、
山間部ではD2(縄文系)が多いという
調査結果が存在することです。

諸民族が興亡を繰り返したユーラシア大陸から見れば、
東シナ海と日本海によって守られた日本列島は、
いわば「最後の避難所」だったといえるでしょう。
 
石器時代に北方から渡来した人々が
豊かな縄文文化を育んだうえに、
鉄器をもった弥生人が移民というかたちで
徐々に浸透していき、
お互いを排斥するのでなく、
融和して日本人を形成したと思われます。
 
こうした歴史が、和を尊び、
外来文化の受容につねに積極的である
日本人の気質に影響していることは、
間違いありません。

現代の日本人も、
移民により形成されたことがわかります。

それもかなり平和的な形で行われました。

どういうふうに行われたのか、
縄文人に学びたいところです。

『一万年の旅路 』でも、
ネイティブ・アメリカンが、
ユーラシア大陸からアメリカ大陸にわたっていく
旅路が伝えられていましたが、
この中でも、ネアンデルタール人との混血を
つくる話が印象に残っています。

人類史をさかのぼれば、
純血など存在しないことがわかりますし、
そもそもホモ・サピエンス単独でもないことが
著者のDNAからわかります。

人種という区分けが、
そもそもあまり意味のないものであるということは、
誰もが知っておいたほうがよい事実ではないかと
考えています。

病原体との関連でいえば、
コロナウイルスは、東アジアで、
以前から広がっていたもので、
東アジアの人々は、
すでにある程度の抗体を
持っているのではないでしょうか。

だから、地域により、感染による重症化や死者数に
差異があるというのは、
納得のできる事象だと考えます。

あなたは、移民について、どのように考えますか。

20220509 移民によって作られた世界_OPEN(3)vol.3403【最幸の人生の贈り方】

ローマ帝国とモンゴル帝国

■ローマ帝国

アケメネス朝ペルシャやアレクサンドロス大王と同じく、
軍事的なローマ人たちは敵に容赦はしなかったが、
負けた地域はすぐに新しい州として受け容れ、
地元の統治構造には手をつけず、
地元の慣習を維持した。

地元の神はローマの神殿(ギリシャ人から拝借したもの)に組み込まれ、
古い神の一化身とされた。

だからみんな、以前と同じものを拝み続けられる──
ただしユダヤ人と特にキリスト教徒は別だ。

彼らはその一神教のため、
独特な騒ぎを引き起こした。

それまでの帝国とのちがいは、
ローマでは外国人や移民たちの地位に
制限がなかったことだ。

●キリスト教改宗

寛容と同化というローマの有効な組み合わせは、
すでに4世紀初頭のキリスト教改宗によって
つぶされつつあった。

キリスト教が正統な宗教となったら、
他の宗教をすべて弾圧しはじめた──
異端土着宗教、マニ教、ユダヤ教のみならず、
キリスト教の別宗派すらつぶしにかかったのだった。

この新しい不寛容は、
帝国とその多くのちがった集団をまとめていた
相互のつながりを解体してしまった。

■モンゴル帝国

十字軍と同様に、ジンギス汗は残虐な軍事家で、
敵やその家族には一切情けをかけなかったが、
十字軍とはちがい、何か一つの信仰を
強制しようとはしなかった。

モンゴルは宗教の自由と民族的寛容を実践し、
血族と部族の忠誠に代わり、
能力主義的な基準を設けた。

モンゴルのオープン性は、
他の支配者に比べて優位性をもたらした。

他の支配者は、有能で技能を持つ人々でも
支配的な宗教の解釈がちがったら、
追放したがった。

1241年にヨーロッパを侵略したモンゴル騎馬軍のうち、
モンゴル民族は3分の1ほどしかいなかった。

彼らは中国北部、中央アジア、ロシア、ペルシャの
物質的、知的、技術的なリソースを
組み合わせて攻撃した。

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世界で、イスラム教信者が増えている中で、
どうやって一神教の異教徒が平和に共存できるのか、
考えていましたが、
すでにモンゴル帝国はそれを実現していたのですね。

とても勉強になるとともに、
励みにもなりました。

ローマ帝国も当初は多神教で、
征服するたびに、地元の神を加えていたことは、
知りませんでした。

多神教ならではの寛容性ですね。

モンゴル帝国は、それを超えて、
異なる一神教ですら、受け入れていました。

イギリス人もモンゴル軍将校になっていたことも
知りませんでした。

モンゴル軍は残虐だと思い込んでいたので、
私の歴史観を書き換えました。

モンゴル帝国について、
もっと知ったほうがよさそうですね。

以下、wikipediaから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/モンゴル帝国#文化

モンゴル部族の伝来の宗教は
素朴な天に対する信仰を基礎としたシャーマニズムであり、
かつ仏教やネストリウス派のキリスト教、
イスラム教を信仰する人々とも古くから接してきたため、
神を信じる宗教を平等に扱った。

このことからモンゴル帝国に服属した宗教教団は
保護が与えられて宗教上の自治を享受することとなった
(もっとも民衆を扇動して
モンゴル帝国への謀反を企てるような宗教集団は別)。

また、モンゴル高原を遠く離れて
各地を支配したモンゴルの王侯たちは、
支配者層ではあったが、
人口の上では少数派であったため、
現地の文化を徐々に取り入れ、
現地の宗教に帰依することも多い。

ジョチ・ウルスやクリミア・ハン国ではイスラム教が広がり、
ウズベク・ハンなどはイスラム教に帰依した。

宗教に寛容なところは、
日本にとって、有利な点の一つかもしれません。

日本の過去の失敗の一つは、
日本語を押しつけたことでしょう。

これが強烈な反発感を引き起こしました。

宗教と同じく、言語も取り上げてはならないものの
一つといえます。

どうやって、多様な文化をとりまとめたのか、
とても興味のあるところです。

あなたは、異なる宗教が共存するためには、何が必要だと考えますか。

20220510 ローマ帝国とモンゴル帝国_OPEN(4)vol.3404【最幸の人生の贈り方】

スペイン帝国はどうやって滅びたか

■スペイン帝国

スペインの王がイベリア半島の
イスラム支配地を再奪還したときには、
しばしばイスラム教徒の貢献を
認知して受け容れた。

だが教会当局はますます、
この新興国の多様性を不安に思うようになり、
「純血」だけがこの国に統一性と強さを
もたらせるという発想が植えつけられた。

1480年以降、スペイン異端審問は、
ユダヤ教やイスラム教からの改宗者ばかりを
狙い撃ちにして拷問にかけた。

ユダヤ教徒20万人が改宗し、
最大10万人が追放された。

1502年にイザベル1世は、
カスティーリャのイスラム教徒に対して
同じ残酷な選択を敷いて、
やがてスペイン全土で同じことが行われた。

1609年から、25万人のモリスコス──
イスラム教からの改宗者とその子孫──が
追放された。

町が丸ごと無人となり、
技能ある農業労働者が消えると、
スペインの東海岸は経済的に崩壊した。

16世紀と17世紀に、
スペインは9回も債務デフォルトを起こした──
国家破産に最も近い状態だ。

都市化が逆転し、
スペインの実質一人あたりGDPは、
1750年には1500年より低かった。

■オランダ

同時に、スペイン帝国の中で小さな一部が反発し、
独裁制と異端審問に激しく抵抗して、
戦いによって離脱し、
コスモポリタン的な経済超大国を作り上げた──
それがオランダ共和国であり、
現在のオランダの前身となる。

彼らが作った共和国は、
それまでヨーロッパで見られたものとは
まったくちがっていた。

確立した国家教会もなく、
カルヴァン派が多数だったとはいえ、
カトリック、ユダヤ教、ルター派などの少数宗派も
自分の聖典を信仰し印刷する権利を得た。

国境はあらゆる出自の人々に開かれた。

この共和国はあまりに多様すぎて
一つの信仰だけを押しつけることはできなかったが、
経済を発展させるために
移民をひきつけるという動機もあった。

オランダの都市は、他のところで弾圧されていた
集団の逃げ場となった。

新しい市民の国際ネットワークを活用することで、
この地域は世界貿易と金融の中心地となった。

オランダ商人たちは新しい金融商品を使って
リスクを共有し、小規模の投資家ですら
参加できるようになり、
きわめて流動的な資本市場が生まれた。

他の国よりも強い財産権のおかげで
投資と商業が促進され、
女性もまた力を得た。

豊かで活力ある都市はまた、
文化の黄金時代を作り出し、
レンブラントやフェルメールなどの有名人を
生み出した。

豊かな商人と美術市場が、
芸術のパトロンとして
教会や貴族にとってかわった。

この多様性と創造性のおかげで、
オランダは地上で最も豊かな国となった。

1500年のオランダの一人あたりGDPは
スペインの半分程度だった。

1600年にはそれが急激に追いつき、
やがて追い越した。

1602年には、政府出資を受けた商人たちが、
世界初の上場公開企業、オランダ東インド会社を
創業した。

その最大の投資家のうち半数ほどは、
スペインからの難民だった。

1670年になると、オランダ艦隊は、
スペイン、ポルトガル、フランス、イギリス、ドイツを
あわせたよりも大きくなった。

これらの国の人口をあわせると5000万人だ。

たった150万人しかいない国としては、
なかなかの成果だ──
しかも3分の1が最近の移民だ。

OPEN(オープン):「開く」ことができる人・組織・国家だけが生き残る

江戸時代の鎖国時に日本が交流を続けたのは、
中国とオランダでした。

ちょうど、オランダが世界で覇権を握った
時期でもあります。

なぜ、オランダが選ばれたのか、
改めて確認しようと、
ネットを確認していたら、
在日オランダ大使館のサイトに
とてもよいページがありました。

日蘭交流の歴史
https://www.orandatowatashi.nl/about/nichiran-kouryuu

たまたまオランダ船が大分県に漂着したのが
きっかけですが、
その船員にヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムスが
いました。

当時の世界共通語は、ポルトガル語。

その通訳を介して、
徳川家康に気に入られ、
貿易許可をもらうことになります。

また、キリスト教布教に関わらないという方針も
オランダ人が重用された理由です。

さて、1621年の日本人傭兵のくだりも
気になったので、調べました。

ちょうど、シャム(タイ)では、
山田長政が約800人の傭兵隊の隊長に任命されています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f23e69c5a842d3d651060d195eec82113f75f3b2

1621年5月8日、インドネシアのバンダ島で、
オランダ人が日本人傭兵を使って
現地のお金持ちを大虐殺させた絵を見つけました。

相撲の力士のような日本人が刀をもって、
現地で虐殺しています。

1600年の関ヶ原の戦いで
失業した武士がヨーロッパの傭兵として
東南アジア各地に流れたとのこと。

そんな歴史は、今まで知りませんでした。

そして、このページで紹介されている、
太平洋戦争のくだりも考えさせられる内容です。

スペインとオランダから離れて、
日本の歴史についてふりかえることになりましたが、
また新たに学びを得ることができました。

あなたは、スペインとオランダの歴史から、何を学びますか。

20220511 スペイン帝国はどうやって滅びたか_OPEN(5)vol.3405【最幸の人生の贈り方】

移民はうちの社会にはふさわしくない?

■うちの社会にはふさわしくない?

かの移民の国であるアメリカにおいてすら、
大きな集団(しばしば多数派)は
次の移民の波がそれまでの移民の
作り出したものをすべて破壊してしまうと
考えた。

これはあらゆる時代に共通の懸念で、
ある程度は無理もないものだ。

ダメな抑圧的制度を持った国からきた人々は、
ここでもそれを再現しようとするのでは?

だがこれは、移民する人々の自己選択を無視している。

国を離れようとする人々は、
そこでの政治体制に最も賛成しない人々で
あることが多い。

自由に息をしたいと思っている人々だ。

自国が戦争になったり弾圧を始めたりしたら、
自国を離れる人は、なじみのない土地に引っ越して、
ちがう言語や思想、宗教の人といっしょに
暮らすのを最も恐れない人々である可能性が高い。

平均で、最も寛容で柔軟性ある人々が移住し、
根っからの伝統主義者の多くは故国に残る。

さらに、新しい自由な国で暮らす体験により、
ほとんどの移民の態度は、
さらにリバタリアン的な方向に変わる。

人々は現状バイアスを持っており、
何かがうまくいけば、もっと同じことを
続けようとする可能性が高い。

■過去の移民はいい移民

過去の移民はいい移民。
いまの移民は悪い移民。

だがこれも、いまの移民がやがて
過去の移民になるまでの話だ。

このパターンはほとんどの場所で何度も繰り返された。

■移民が雇用に与える影響

移民に対する敵意が繰り返される原因として、
二つの大きな懸念がある。

それが、雇用に与える影響と、
文化に与える影響だ。

国際通貨基金(IMF)による富裕国の調査では、
移民の比率が1ポイント増えると
一人あたりGDPが長期的に2%上がると
推計されている。

労働生産性が上がるのが大きい。

多様性ある職場は業績が上がり、
お互いが専門特化できるようにするおかげだ。

底辺90%もトップ10%も恩恵を受ける。

OPEN(オープン):「開く」ことができる人・組織・国家だけが生き残る

日本の在留外国人数について、確認しました。
出入国在留管理庁:令和3年末現在における在留外国人数について
https://www.moj.go.jp/isa/publications/press/13_00001.html


令和3年末現在における
中長期在留者数は246万4,219人、
特別永住者数は29万6,416人で、
これらを合わせた在留外国人数は276万635人となり、
前年末(288万7,116人)に比べ、
12万6,481人(4.4%)減少しました。

国・地域別
(1) 中国 716,606人 (構成比 26.0%) (-  7.9%)
(2) ベトナム 432,934人 (構成比 15.7%) (-  3.4%)
(3) 韓国 409,855人 (構成比 14.8%) (-  4.0%)
(4) フィリピン 276,615人 (構成比 10.0%) (-  1.1%)
(5) ブラジル 204,879人 (構成比  7.4%) (-  1.8%)
(6) ネパール 97,109人 (構成比  3.5%) (+  1.2%)
(7) インドネシア 59,820人 (構成比  2.2%) (- 10.5%)
(8) 米国 54,162人 (構成比  2.0%) (-  2.9%)
(9) 台湾  51,191人 (構成比  1.9%) (-  8.4%)
(10) タイ 50,324人 (構成比  1.8%) (-  5.7%)

在留資格別
(1) 永住者 831,157人 (構成比 30.1%) (+ 2.9%)
(2) 特別永住者 296,416人 (構成比 10.7%) (- 2.6%)
(3) 技能実習 276,123人 (構成比 10.0%) (-27.0%)
(4) 技術・人文知識・国際業務 274,740人 (構成比 10.0%) (- 3.0%)
(5) 留学 207,830人 (構成比  7.5%) (-26.0%)

都道府県別
(1) 東京都 531,131人 (構成比 19.2%) (- 5.2%)
(2) 愛知県 265,199人 (構成比  9.6%) (- 3.1%)
(3) 大阪府 246,157人 (構成比  8.9%) (- 3.0%)
(4) 神奈川県 227,511人 (構成比  8.2%) (- 2.1%)
(5) 埼玉県 197,110人 (構成比  7.1%) (- 0.6%)

詳細データはこちら
https://www.moj.go.jp/isa/content/001370057.pdf

この2年間は、ベトナム以外は、
減少しています。
これは、新型コロナウイルスが原因でしょう。

さて、著者によると、どの社会でも大量の移民の受け入れは、
一時的に批判的に受け取られるものの、
社会に馴染んで、過去の移民という位置づけになると
評価があがるようです。

日本は、終戦後の処理により、在日朝鮮人は、
かなり不利な立場に長いこと置かれていています。

外国人の参政権についても調べてみると、
国によって、施策はばらばらです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/外国人参政権

外国人の雇用に対する意識も国によって大きく異なります。
https://www.worldvaluessurvey.org/WVSDocumentationWV7.jsp
Q34.「仕事が少ない時は移民より自国民を優先する」に賛成するか?(2017-2022)
日本人は、賛成が60.0%、どちらともいえないが28.0%、反対が8.5%。

(2010-2014)では、賛成が67.2%、どちらともいえないが28.6%、反対が4.2%
だったので、考え方に変化が見られます。

これに対して、ドイツは、
賛成が27.1%、どちらともいえないが17.7%、反対が53.9%です。

お国柄で考え方がかなり違いますね。

労働力という観点だけでみれば、
ロボットなどで代替できることもありますが、
それでは、新しい価値観を生み出すことは
難しいかと思います。

あなたは、日常的に、どれくらいの外国人と関わりをもっていますか。

20220513 移民はうちの社会にはふさわしくない?_OPEN(7)vol.3407【最幸の人生の贈り方】

中世のヨーロッパで科学が衰退した理由

■古代ギリシャ

超自然以外の原因の探求が
最初に始まったのは古代ギリシャで、
紀元前6世紀のイオニア沿海部にある
コスモポリタン的な交易の中心地でのことだった。

世界や物質や生物を、超自然的な力を
まったく持ち出さずに説明しはじめた。

イオニア人たちは科学と哲学を発明したのだ。

オーストリアの物理学者
エルヴィン・シュレーディンガー(はいはい、あの猫の人です)は、
イオニアで啓蒙主義が発達したのには
三つの理由があると考えた。

まず、その地域が強大な大国や帝国の支配下になく、
小さな独立都市国家や島国で構成され、
ちがった行動や考え方をする自由が比較的高かったこと。

次に、イオニア人は東西の狭間に位置する
航海者で交易者であったこと。

第3の理由は、こうした社会が
「神官まみれ」ではなかったからだ。

エジプト人やバビロニア人たちとはちがい、
中央集権的な宗教や、特権聖職者階級を
持っていなかった。

ここに付け加えるなら、
ギリシャ哲学者たちにはかなり字が読める観客が
いたことだ。

神話や理論を書き下しておけたから、
新しいかたちで検討し、批判し、共有できた。

■暗黒化する時代

アテナイから西洋への直線的な道はない。

それどころか、そのつながりは途絶え、遺産は破壊され、
1000年以上にわたってヨーロッパでは
大した科学進歩が起こらなかった。

実は、多くの科学的発見や技術進歩は
ローマ陥落以降は忘れられた。

それを生かし続けてさらに発展させたのは、
アラブ世界と中国なのだった。

その原因は、シュレーディンガーの啓蒙条件が
西洋では逆転してしまったからだ。

最も致命的な点として、
原理主義的ドグマが再び押しつけられるようになり、
主流から外れた疑問や、それに対する革新的な答えが
許されなくなってしまったのだ。

そのときの退行はキリスト教という形でやってきた。

歴史に教訓があるとすれば、
それはどんな宗教であろうと、
思想を独占して非正統者を処罰するようになれば、
進歩を止めてしまえるということだ。

紀元313年にコンスタンティヌス帝が
キリスト教をローマ帝国の公式宗教にすると、
これは国家方針となり、異教は弾圧された。

コンスタンティヌス帝自身、異端の本を禁書にして、
それを秘匿したら死刑を科した。

狂信的なキリスト教徒の暴徒たちが
神殿や偶像をものすごい勢いで破壊しはじめた。

ついに紀元529年には、
ユスティニアヌス帝は洗礼を拒んだものは全員追放と宣言し、
小アジアだけでも7万人ほどが強制洗礼を受けたとされる。

多くの知識や文献が、その後の「大消滅」の間に
あっさり失われた。

禁止や破壊により始まったものを仕上げたのは、
単純な放置、無知、文字通りの忘却だった。

4世紀にローマ帝国がラテン系の西ローマと
ギリシャ系の東ローマに分裂したことで、
ほとんどのヨーロッパ人はギリシャ語を学ばなくなり、
西部の解体がその没落を加速した。

気候と害虫害獣が書物を腐らせた。

ヨーロッパ人は製紙法を知らなかったので、
動物の革に執筆した。

この羊皮紙は高価だったので、
古い著作がしばしば洗い落とされて、
そこに上書きされた。

あらゆる古典文学の9割近くが
これで失われたと推定されている。

紀元1000年になると、
医学、物理学、天文学、生物学など、
理論的知識のあらゆる分野は、
神学を除いてすべて崩壊した。

比較的教育水準の高い人々は修道院にこもっていたが、
彼らですら8世紀前の多くのギリシャ人たちよりも、
目に見えて知識水準は低かった。

キリスト教が台頭し、異教を弾圧することで、
知識水準が下がったというのは、
とても興味深い話でした。

そして、代わって盛り上がったのが、
イスラム世界と中国。

先日読んでいた『「世界の民族」超入門』で、
世界最古の大学のひとつが、
エジプトのアズハル大学で、
972年に設立したということでした。

モロッコのアル=カラウィーンは
859年に商人一家の女性が創建したそうです。

そして、もともとはインドのものである
アラビア数字をヨーロッパに紹介したとされています。

そして、イラクの数学者が現代代数学を発明し、
ペルシャの天文学者が1年の長さを365.2421986日と算出し、
1079年には、グレゴリオ歴よりも正確な太陽暦を編み出し、
史上空前の精度をもつ世界地図を作り出しました。

イスラムについては、著書内で紹介されていたので、
改めて同時代の中国での発明を振り返ると、、、

古代中国の4大発明は、
羅針盤・火薬・紙・印刷。

唐の時代(618年 – 907年)は、発明が多く、
続く宋(960年-1279年)も初代皇帝太祖が打ち立てた政体は
言論と思想の自由を大幅に認めたため、
科学の進歩、経済改革、芸術・文学が
開花する土壌ができたとのこと。

交易は国内・対外とも盛んになりました。

日本も大きな恩恵を受けています。

個人的に衝撃だったのは、
ヨーロッパ人の知識力が、
紀元1000年ごろには、
大きく衰退していたということです。

そして、それはかなり長い間、続きました。

科学というのは、ヨーロッパで直線的に
発展してきたわけではなかったのです。

歴史はいろいろな観点でふりかえるたびに
発見があり、とても興味深いです。

あなたは、古代・中世の科学の発展の歴史から、何を学びますか。

20220514 中世のヨーロッパで科学が衰退した理由_OPEN(8)vol.3408【最幸の人生の贈り方】

ルネサンスと啓蒙主義がなぜ起こったか

■アリストテレス

中心的な役割を果たすのは、
新たに発見されたアリストテレスの作品だ。

彼らはそれ以上に、この論理学の大家は実は、
星や運動、地理的な変化、ドチザメの胎生発達まで、
自然界の観察と説明についても
余人の追随を許さない成果を上げていると気がついた。

アリストテレスは、
大量の生物学データを収集し体系化しており、
その多くはレスボスの動物学研究に費やした
2年間で得たものだった。

その内容の知的な力は、
中世世界を震撼させるに十分だった。

キリスト教ヨーロッパの知的中心であるパリ大学からは、
アリストテレスがまちがいなく問題を引き起こす
という報告がやってきた。

1210年に、アリストテレスの「物理学」「形而上学」
の講義と読書が、私的にも禁じられ、
それを破れば破門だと脅された。

1215年に彼の本が再び糾弾され、
1231年に教皇グレゴリオ9世が、
それを検討してまちがいを
太字の黒インクで消し去るまでは禁書にすると
お触れを出した。

教会はアリストテレスの思想を打破できないなら、
それを活用するしかない。

この危険な新しい力の源は、
教会の統制下におく必要がある。

■アリストテレスを正当教義とする

アリストテレスの本を禁書にしたヨーロッパの大学が、
こんどはアリストテレスを必読書にして、
教会は物理や宇宙に関する彼の仮説の一部を、
疑問視してはならない教義にしてしまった。

だがこれは、教会とますます世俗的になる
知識人との間の溝を、なおさら深めてしまった。

イタリアの大学における自然研究は
ますます実務的で実験的にすらなりつつあり、
いまやそれが伝統的な世界観に、
次々と打撃を与えていた。

 
■16世紀のヨーロッパ

グーテンベルクの印刷機は、
新しいアイデアや発見についての知らせを広めた。

1500年には、1000万冊ほどの本が流通しており、
人々の識字率もますます上がっていた。

1500年以降、ヨーロッパの精神はますます開かれた。

アジアとの通商ルートを発見しようという試みを
きっかけとした、様々な発見をもたらす
大航海のおかげだ。

ヨーロッパ人はアメリカ大陸で、
新しい洞察、見知らぬ植物、未知の生物を発見した。

インドや中国との接触が確立すると、
驚愕した船乗りや貿易人たちは、
さらに進歩した科学、目新しい製品や技法を
持ち帰った。

16世紀には、イベリアのスコラ学派は、
アリストテレス主義とルネサンスの人文主義を組み合わせ、
天文学と新大陸についての新しい発見に
取り組んだことで、経済学と国際法の急先鋒となった。

サラマンカ学派(最も影響力ある大学にちなんだ呼び名)は、
フランシスコ・デ・ビトリアを筆頭に、
アメリカ先住民をスペインやポルトガルによる
奴隷化と強制改宗に対して擁護し、
人権という大義の先駆者となった。

先住民は自分たちとはちがっているし、
キリスト教徒ではないかもしれないが、
理性と自由意志を持っているから
生命、自由、財産の権利があるのだ、
と彼らは述べた。

■正統教義の逆襲

1700年頃には、ヨーロッパは暗黒時代から
ある程度は抜けだしかけていたが、
アジアを追い抜くほどではなかった。

アジアのほとんどの地域では、
平均所得や生産性はヨーロッパより高かった。

そしてヨーロッパ人の識字率は上がりつつあったが、
中国人に比べれば識字率も教育水準も低かった。

1500年代末から1600年代半ばにかけて、
地球の寒冷期(「小氷河期」)に、
人口増と食品価格上昇が同時に起こったので、
反乱や内戦、国家崩壊がヨーロッパと中東、アジア各地で
相次いだ。

こうした悲惨な危機に直面した支配者たちは、
構造を見直して社会秩序と自らの権力を温存しようとした。

1650年以降、過去に物事が行われていたやり方を発見し、
それを見習うというのが最大の目標となった。

最初はヨーロッパも同じだった。

でもヨーロッパがちがっていたのは、
それが失敗したことだった。

プロテスタント改革者たちは、
もっと純粋で伝統的な形のキリスト教に戻りたいと
考えた。

カトリック教会も己の権威を再確立しようとして、
この改革反動期に抑圧性を増した。

コペルニクスは、地球が太陽の周りを回ると主張したため、
カルヴァン派とルター派の両方から糾弾された。

1633年に、異端審問がガリレオを拷問で脅して、
太陽中心説の撤回を強制したのは有名だ。

彼はその後の生涯を自宅軟禁で過ごす。

イタリアだけでなく、やはり異端審問のあった
スペインやポルトガルでも、
自由な探究が制約された。

フランスの大学でも伝統主義的な反動が進み、
オーストリアとドイツは三十年戦争の後で
荒廃している状況だった。

だが、わずかな希望が残されていた。

■ヨーロッパの国家と自治都市

ヨーロッパの伝統主義者も、
中東やアジアと同じような反応を示したとはいえ、
ヨーロッパで彼らが直面した障害はもっと面倒だった。

スコットランドの哲学者デヴィッド・ヒュームが
1742年に説明したとおり、
「現在のヨーロッパは、ギリシャに見られた
ミニチュア版多国家間の競争パターンを
大きく拡大したものとなっている」。

ヒュームが言っているのは、
あまりに分裂していて、たった一人の支配者やエリートが、
大陸全体にある正統教義を押しつけることは
できない(中国はそうなってしまった)。

だが同時に、それは相互の取引でつながっているので、
各領土は絶えずお互いに学び合えるということだった。

16世紀初頭、ヨーロッパには
ほぼ独立した政治ユニットが500以上存在していた。

こうした政治区の一部では
ものすごい弾圧と迫害が行われたが、
それをやると他に追い越される可能性が
高まってしまう。

さらに、そのすべてが同じまちがいを犯すとか、
そのすべてが協調して弾圧を行うとかいう危険は
小さかった。

多くの人は、どっちの権威を参照しても
自分の見方は正当化できず、
常識と理性に頼るしかないと結論した。

18世紀半ばになると、絶対主義王政ですら、
異論の弾圧は危険な脅しというよりは、
形ばかりの儀式になった。

■妬みによる模倣

妬みによる模倣のおかげで、ヨーロッパ人は
競争相手や信用していない相手、
嫌っている相手ですら
平気で真似するようになった。

これは彼らがアラブ、インド、アジア文化と接触し、
その目新しいアイデアや手法を夢中で
吸収したときに決定的な役割を果たした。

イノベーションを学習した場所にちなんで命名している。

彼らは「アラビア数字」で計算し、
「七面鳥(ターキー)」を食べ(これはアメリカ産だが、
トルコ商人と結びつけられたのでこの名がついた)、
「陶磁器(チャイナ)」を使って、
ペルシャ絨毯で家を飾り、
「ジャパニング」という漆技法を導入した。

とても興味深いのは、アリストテレスの著作の
扱いの変転です。

ギリシャ哲学は、ヨーロッパで消滅し、
イスラム世界で引き継がれ発展してきました。

スペインがイスラムに征服されることで、
その文化に触れるようになり、
それがヨーロッパに広がります。

そして、初めは受け入れられたものの、
いったんはキリスト教で禁じられ、
その後、正当教義とされます。

このことにより、コペルニクスやガリレオが
弾圧されることになります。

正直なところ、私は、アリストテレスを
哲学者だと思い込んでいました。

しかし、その哲学の範囲は、とても広く、
政治学、宇宙論、天体学、自然学、気象学、
博物誌学的なものから分析的なもの、
生物学、詩学、演劇学、心理学を含む内容でした。

確かにこの内容は、
後世に大きな影響を与えたに違いありません。

これがヨーロッパで引き継がれなかったことは
もったいないと思うものの、
だからこそ、イスラム世界で発展することができ、
それがゆえに、ヨーロッパでのみ発展するよりも
よりよい成果を残したともいえるかもしれません。

歴史を長い目で見れば、
一時的な不遇は、よりよい結果につながることが
見えてきます。

ルネサンスがなぜ、ヨーロッパで起こったのか。

古代ギリシャの拡大版のような政治状況だったからですね。

現代世界を眺めると、さらにその拡大版になっているとも
いえます。

「どの国も何かしら弾圧はしたが、
自分固有の邪説に最も寛容なところに引っ越せば、
自由思想家は常に発表が可能だった。

思想家や著述家自身が国境を越えなくても、
彼らの本は超えた。」

これは、今ではインターネットで、
世界で実現していますね。

政府がネットに制限をかけている国もありますが、
それをすりぬける方法もまたあるわけです。

NHKのロシア語のニュースのサイトが、
ロシアからアクセスが増えているとのこと。

制限されていたとしても
回避することは可能です。

それよりも難しいのは、
気づかないうちに、同調の輪の中に
入り込んでしまい、
それが絶対だと思い込んでしまうことかもしれません。

そして、そうなりやすい環境に
どんどんなっています。

なぜなら、自分と同じような考え方をする人とだけ
つきあうのが楽だからです。

SNSも検索エンジンも、
そのように誘導するようになっています。

あなたは、ヨーロッパの思想の歴史から、何を学びますか。

20220515 ルネサンスと啓蒙主義がなぜ起こったか_OPEN(8)vol.3408【最幸の人生の贈り方】

なぜ産業革命が中国で起きなかったのか

■宋

産業革命とオープン社会の始まりは、
宋代中国(960~1279年)で起きた可能性も
十分にあった。

中国はすでに羅針盤で航海し、
活字印刷の本を読み、
火薬で戦っていた。

初代宋皇帝の太宗は、
不穏と排外主義の時期を経て、
中国統一のためにがんばって戦ったが、
それが終わると、混乱と戦国時代への逆戻りを
阻止しようとした。

国は民政となり、軍事拡大よりは
国内開発に注力しはじめたという。

宋朝は唐(618~907年)の
コスモポリタン的な伝統を復活させた。

イスラム商人、インド僧侶、
ペルシャ人やユダヤ教徒が再び歓迎された。

初代皇帝は主任天文学者として
アラブ系イスラム教徒を指名した。

都市は世界のあらゆる部分からの
商人や科学者であふれ、
文化やアイデアのるつぼとなった。

知識水準を高めるため、
政府は百科全書やアンソロジーを編纂し、
そこにはフィクションの物語や政治論説から、
数学、医学、農学の知見がまとめられて、
ますます識字率の高まる国民にそれが提供された。

学者たちは新しい知識を自由に探究して研究できた。

ベトナムからはコメの優れた品種を輸入し、
中東からは風車を持ち込んだ。

科学者や学者が活躍して、
数学、天文学、医学、冶金を発展させた。

都市住民の腹を満たしたのは、
短期間で収量を倍増させた革新的な農民たちだった。

そうした農民は、財産権の確立と自由な取引のおかげで
「適応力のある合理的な、利潤指向のプチ起業家の階級」
になりつつあった。

効率性が高まり、多くの農業労働者が不要になったので、
それが都市や製造業に移行した。

紙幣が発明され、これが特に地方部の交易に
大いに役立った。

国内移動の制限はゆるめられ、
世界で最大の統合市場が作り出された。

中国はその頃にシルクロードへのアクセスを失ったため、
海洋商業の重要性が増し、商船隊は無敵となった。

金融イノベーションにより、
所有と経営の分離が実現して、
その商船隊の活動は続いた。

見事な道路網が構築され、
作物、果実、野菜、材木、紙が港に運ばれ、
それがペルシャ、アラブ、東南アジアの設計に基づく
大型船に積み込まれた。

水門が発明されて、
川や運河の高さのちがう閘門(こうもん)で
船を上げたり下げたりしたので、
黄河と揚子江との接続が大いに改善された。

富が激増し、人口も爆発した──
それまで500年にわたり5000万人ほどで
安定していた人口が、2倍以上になった。

宋代中国は、オープンな取引、
オープンな門戸、オープンな心に基づく
世界で最も進んだ文明だった。

そして次の第一歩として
現代世界に踏み込む寸前まできていた。

だが、そうはならなかった。

1127年に宋は、女真族に北部中国を奪われ、
首都を現在の杭州に移すと、
現在では南宋と呼ばれる、
ずっと小ぢんまりした国を作り出した。

1235年にモンゴル族が南宋を攻撃しはじめたが、
外輪式の船艦、火薬や焼夷弾を投擲する
船上カタパルトといった
大きな海洋イノベーションのおかげで、
中国人は防衛線を守りおおせ、
一時はモンゴル族を押し戻した。

だがモンゴルはしつこく、1279年には
最後の宋艦隊が崖門で撃破されて
すべてが終わった。

著者による、宋代の中国の評価が高いですね。

日本では、唐ほど知られていないのは、
なぜだろうと思い、調べてみました。

ちょうど平安時代の中期から鎌倉時代の中期にあたるのですが、
正式の外交貿易は行われず、もっぱら私貿易だったようです。

それでも、日宋貿易のおかげで、
最新の医学知識や薬品が日本に伝えられたようです。

改めて、宋代について、
『もういちど読む 山川世界史 PLUS アジア編』で確認。

中国史のなかで宋代という時代は、
唐代以前と異なる新しい特色をもつ
重要な時代だとみなされており、
唐から宋にいたるこの大きな変化は、
歴史学界において「唐宋変革」とよばれています。

政治体制の面から見ると、
宋代の新しい特徴は、
皇帝を中心とした中央集権的な文官統治制度が
確立された点に求められます。

科挙制度が拡充されて、
官僚登用の主要なルートとなりました。

宋代には都市と商業が著しく発展しました。

北宋の首都の開封は、
大運河と黄河を繋ぐ地点にある商業都市であり、
長安と異なって、中国内部の東西南北の交通の要と
いうべき場所に位置していました。

碁盤の目状で、商業も限られた区画のなかで
おこなわれていた長安と異なり、
開封では区画にしばられることなく
直接道路に面していました。

宋代の商業発展の背景となったのは、
政治の中央集権化にともなう
国家財政の規模の拡大です。

宋代には対外貿易も活発化します。

唐末以来、朝貢や冊封に基づく
国際的な政治秩序は崩れたものの、
かわって商人による交易活動が
東アジア世界を結びつける絆となりました。

宋代の文化の特色としてまずあげられるのは、
士大夫(したいふ)を担い手とする
文化の興隆です。

「士大夫」という語は、宋代以降、
儒学の素養を積んだ知識人を指して

用いられるようになりました。

なるほど、正式の外交貿易がなかったのは、
日本の都合ではなく、
中国側の事情だったのですね。

そしてこの時代に生まれた「朱子学」は、
江戸時代の学問に大きな影響を与えています。

また、磁器が普及したのもこの時代です。
本当に美しいですね。

宋にあまり影響を受けなかったのではと
思いましたが、
そうではなく、やはり大きな影響を受けていました。

そして、これほど発展をしても、
永遠に続くわけではないというのが、
歴史の示すところです。

これもまた知らなかったのですが、
明は、かなり制約の多い社会だったのですね。

あなたは、宋、明、清の歴史から、何を学びますか。

20220516 なぜ産業革命が中国で起きなかったのか_OPEN(10)vol.3410【最幸の人生の贈り方】

なぜ新大陸を中国が発見しなかったのか

■鄭和

新世界を発見するのは中国であるはずだった。

明朝皇帝たちが民間航海を禁じたときも、
中国が貿易をやめたわけではない。

政府がそれを独占し、
役人たちを肥え太らせたのだった。

1405年から1433年にかけて、
皇帝はインド洋周辺に権力と富を投射して、
属国群をつくり出すため、
巨大艦隊を7回にわたり送り出した。

イスラム教徒の宦官、鄭和の指揮下で、
総勢3万人ちかい250隻の艦隊が
東南アジアと南アジア、アラビア、東アフリカに航海した。

コロンブスが生まれる何十年も前に、
彼らはコロンブスよりはるかに長距離を旅し、
使った船もずっと大きかった。

鄭和の旗艦はおそらく、全長135メートルで、
これに対してコロンブスの小さなサンタマリア号は、
わずか20メートルだ。

だが中国の海洋冒険は、
たった一つの決定によりつぶされた。

ある日、皇帝はもうたくさんだと決めた。

1433年に航海は終わり、
その3年後に外洋船の建造は違法とされた。

鄭和の航海は、7回にわたり。
1405年から1433年まで行われました。

毎回、2万7千人ほどの大規模な人員で、
巨大な主艦のほかに、給水艦や食糧艦、輸送艦もある
船団でした。

のちのヨーロッパ人も大航海時代と違って、
植民地化しようというよりも
平和的な修好と通商を目的としているようでした。

鄭和の航路は、現在の一帯一路の
海上シルクロードと重なります。

この航海を通じて、
インド洋沿岸の十数カ国が明に朝貢使節を
送るようになり、
南海に対する中国人の知識も増大しました。

第5次航海の時には、
ライオンやヒョウ、ダチョウ、シマウマなどの
動物を持ち帰り、
特に永楽帝が喜んだのは、キリンだったとのこと。

君主が仁政を行うときに現れる瑞獣
「麒麟」として紹介されたためです。

朝貢貿易というのは、
明を上位にするために不平等ですが、
貢物に対して、数倍から数十倍の宝物を下賜として
与えたために、周辺国は経済的利益がありました。

しかし、防衛費や軍事費を負担するよりも
安上がりだったという見方もあったようです。

明は、国民には、海外出国を禁じる一方、
大航海を行っており、とても興味深いです。

極端なクローズとオープンが、
両立している時代です。

大航海は、6回目と7回目に9年間の中断があり、
7回目のときは、鄭和は60歳になっていたものの
他に人材がいないということで、
指揮を命じられました。

250隻の艦隊を指揮するのは、
現代でも困難だと思います。

それを繰り返し行ったのですから、
すごいことだと思います。

その後、財政不足ということで、
なくなりました。

なんとなく、アポロ計画に似ているように
感じました。

著者は、皇帝の決定により、中止されたと
書いていましたが、
財政状態を見れば、仕方なかったのではないかと
推察します。

そして、コロンブスは、航海するまでに、
20年もかかっていたのですね。

あなたは、鄭和の大航海から何を学びますか。

20220517 なぜ新大陸を中国が発見しなかったのか_OPEN(11)vol.3411【最幸の人生の贈り方】

恋愛結婚が生まれたきっかけとは

■イギリス

まっさきに近代に到達したのはイギリスだった。

ヨーロッパ諸国の王室は当時どこも、
課税と独占をめぐって議会と死闘を繰り広げていた。

イギリスがちがったのは、
長期的には王室がまったく成功しなかったという点だ。

スペインの王室は外国帝国、強制労働、金銀で
繁栄していたが、
イギリスの王や女王はアメリカとの貿易独占ができず、
独立貿易商が豊かになり、
王室や王党派は豊かにならなかった。

王と議会との権力闘争が拡大した結果、
1642~1651年のイングランド内戦に拡大した。

王家の絶対主義に対する最後の一撃は、
1688年の名誉革命だった。

ウィレムとメアリーが玉座につけたのは、
権利章典を遵守して、議会の権威を尊重すると
約束したからだ。

これはイギリスが立憲君主国として
法治国家になった瞬間だった。

王家は司法への介入をやめた。

裁判官は終身職となり、
政治的な理由でクビにできなくなった。

いまやイギリスの法律はあらゆる市民に適用され、
貴族が裁判所で平民に対して
負けることも可能になった。

イギリスと、それに追随した国々がオープンになったのは、
もはや支配的な社会階層がなく、
全体を律する計画はなく、
みんなが従うべき道筋もなかったからだ。

初期の産業革命におけるイギリスの優位性を
生んだ重要な理由は、
政府が重要な技能を持った人々に、
どこへ行けと指図しなかったことだ。

大陸ヨーロッパでは、エンジニアたちは
軍か公僕か教職につくのが当然だった。

教育を受けてアイデアを持った人々には、
大学や教会以外の行き場ができた。

識字率が上がると、新聞業界も拡大し、
既存の体制に不満な人々に声を与えて、
それがさらなる変化を後押しした。

18世紀には、イギリスは啓蒙科学に心を開き、
港湾を貿易に開き、
門戸をあらゆる場所からの才能に開いた。

それ以前のあらゆる社会に比べると、
イギリスはいまや、変わった新しい知識を探求し、
新技術で実験する自由度が高くなっていた──
それが成功すればかなり儲かるという見通しもあった。

もっと重要な点として、
だれかがもっといいやり方を考案したら、
イギリス人もそれを試してみて、
そのアイデアや技術、製品を
気に入った人が増えれば、
既存勢力を打倒するのが許された。

人類は昔から、
物事のもっといいやり方に出くわしてきたし、
模倣傾向のおかげでそれが
移動性の高い社会では急拡大したが、
1750年頃までそうした技術は、
まともに認知されていなかった。

この産業啓蒙時代に、
人々は工房、炭坑、実験で学んだことを体系化した。

その科学を技術に適用することで、
意図的に材料、機械、手法を操作し、
デバッグして改良し、
ちがう状況や新しい用途に適応させることが
可能となった。

この文化は、実際のモノに
裏づけられることで強化された。

人々は新しいナラティブに流されるだけでなく、
それが機能するのを見た。

みんなそれを自分の生活水準で実感できた。

産業革命はしばしば、
極貧とひどい労働条件の時代とされる。

現代に比べれば確かにその通りだが、
この結論は地方部や工業化していない町での、
ずっとひどい生活水準を都合良く無視している。

だからこそ、何百万人もの人々にとって、
工場町に逃れるのがいちばんの希望に思えたのだ。

1900年にヨーロッパの工業化地域は、
工業化していない南欧の3倍以上も豊かだった。

資本主義と工業化が恥知らずな収奪を
意味するとしても、
収奪されるよりひどい唯一のことは、
まったく収奪されないことだ。

それまでの文化は、
地主と世襲階級によって定義され、
マシな場合ですらそのアイデアや表現が
ゆっくりと低位階級に流れ落ちただけだった。

自由と識字能力、購買力の拡大で、
新しい階級はもっと自信を獲得し、
文化的な需要を動かせる機会ができた。

豊かさが高まると、余暇も増えた。

イギリスなどの急速に工業化した国は、
市民社会組織や団体の劇的な成長を経験した。

人々は娯楽、相互支援、女性の権利主張、
奴隷制反対などの社会問題を核に
集まるようになった。

最も驚天動地の変化は、恋愛の文化的な容認だ。

それまで結婚は、政治的または金銭的な制度と
考えられており、したがって
年配の親戚が手配するものだった。

愛のために結婚するなどというのは
家族に対する身勝手な裏切りとされた。

家族は、生存闘争のために
労働力の供給と有益な親族が必要だからだ。

現代社会で当たり前の考え方が
必ずしも当たり前ではないことは
知っておいたほうがよいと考えていますが、
恋愛結婚もそうだったと
改めて思い出した次第です。

改めて日本でどうだったか調べてみると
戦前戦後時期は、
お見合い結婚は全体の7割を占めていましたが、
今では結婚相談所の2%を含めて、5%程度。

恋愛結婚がお見合い結婚を上回る分岐となったのは
1960年代後半でした。

これに伴い、
1965年に25歳だった適齢期の男性が、
生涯未婚の判断基準となる50歳になった1990年代以降、
生涯未婚率が上昇し始めました。

また、特殊離婚率も上昇し、現在は、35%程度。

家制度に縛られて、結婚するのが当たり前だったのは、
日本でもそんなに遠くない80年ほど前の時代です。

結婚、離婚に関しては、江戸時代のほうが
自由だったようで、
明治政府の「結婚保護政策」によって、
結婚前提の社会を作り出したようです。

ちなみに江戸時代の特殊離婚率は、
4割近くで、現代よりも多いのです。

土佐藩には「7回離婚することは許さない」
という禁止令があったほどです。

とても興味深いです。

私は、7回離婚した人には、
まだお目にかかったことはありません。

禁止令が出たということは、
かなりの数があったはずです。

自分にとっての当たり前は、
全然当たり前ではないということに
改めて気づいた次第です。

あなたは、結婚・離婚について、どんなふうに考える社会がよいと考えますか。

20220518 恋愛結婚が生まれたきっかけとは_OPEN(12)vol.3412【最幸の人生の贈り方】

なぜ世界は「敵と味方」に分かれるのか?

■集団の対立に差は必要ない

集団の対立には天然の差などまるで必要ない。

限られた資源を巡って競争的、闘争的な状況に
置かれると、どんな集団の間でも対立は起こりうる。

共通の重要な目標だけが競合するグループを
団結させる。

■共感力の高い人々は外集団に対する否定が強い

人類学者ドナルド・ブラウンによると、
ある種の「自民族中心主義」はあらゆる文化に
普遍的に見られる特徴だ。

別に人間の共感が足りないということではなく、
内集団の愛がしばしば外集団に対する憎しみに
変わるということだ。

最近の研究によると、
共感力の高い人々は政治的外集団に対する否定が強い。

実際、共感力のある生徒のほうが、
共感度の低い生徒に比べて、
対立する政治観を持った生徒が負傷したという
知らせを喜ぶ。

■無作為の集団でも内集団バイアスを示す

研究の一つとして、メンバーが集団編成が
完全に無作為だとわかっている集団を設定してみた。

驚いたことに、コイントスで
グループ分けされた被験者ですら内集団バイアスを示した。

人をある集団のメンバーとして
考えるという単純な事実が、
人間の中にある何か、
「オレたち」に「ヤツら」を負かすよう求める何かを
発動させるのだ。

そして部族主義が進化してきた時代は、もっと危険で、
自分たちが生き残るためには進歩が遅れようとも、
外集団を負かすほうが重要だった時代だから、
これは完全に筋が通っている。

多くの他の研究で内集団えこひいきが実証されてきた。

新たな協力関係や同盟を形成する人間能力は強力で、
恣意的なグループに忠誠を尽くし、
自分たちのグループのメンバーは
他よりもより賢く善良で、道徳的だと考える。

自分たちのグループのメンバーの不品行は
説明可能な1回限りの例と見なすが、
外集団が同じことをしたら、
性根が悪い証拠と見なす。

そして自分たちは多様な個人の集まりとして認識するが、
外集団は均質な集合体と見なす。

抱いているステレオタイプを
裏づける情報ばかり記憶に留め、
自己肯定感や集団の価値がおびやかされると、
内集団に肯定的になり、
よそ者に対して偏見を持つようになる。

大変興味深いです。

集団愛を生じさせるためには、
コイントスでの無作為のグループ分けで
いいそうです。

そして、共感力の高い人の方が、
外の集団への否定が強い。

集団分けする前に、
横断的なアイデンティティと共通の目的が
認識されていると、
集団に分かれても敵対しないで、
冷静に状況判断ができる。

現代のアメリカでは、
人種の分断よりも、
政党による分断のほうが影響が大きく、
イギリスでも
宗教の分断よりも、
ブレグジットへの賛否による分断の
影響が大きい。

この2世紀、マスコミと市場により、
共感の輪を人類全体まで広げてきた。

自分自身の経験から振り返っても、
とても納得できる内容です。

多様性をあまり強調しすぎると、
共通性が注目されなくなり、
分断が起きてしまうというのは、
注意すべき点かもしれません。

あなたが考える、「オレたち」は、どんな種類がありますか。

20220519 なぜ世界は「敵と味方」に分かれるのか?_OPEN(13)vol.3413【最幸の人生の贈り方】

ゼロサム思考は人間の本能だが

■黄金律と罰則

黄金律(「自分にしてほしいと思うことを他人に対して行え」)の
様々なバージョンはすべての宗教にあるが、
不寛容と(しばしば永久の)罰則も
すべての宗教にある。

ゼロサム論理の時代や場所では、
神は攻撃と戦いを推奨し、
人々は神の名において殺す。

非ゼロ関係性の時代や場所では、
神は寛容と非信者との交易の推奨者となる。

■採食民だった祖先の生活

採食民だった祖先は、道具と武器を使用し、
服や宝飾品を身につけていたが、
それらはどこへでも
持ち運べなければならなかったため、
簡単に得られ、すぐに取り替えられる物に
限定されていた。

それは、将来の利益のために投資する
資本と余剰がほとんどない世界だった。

ホモ・サピエンスが存在してきた
ほぼすべての時代を通じて、
人類の大半は生涯のあいだに
経済成長や長期投資、技術的イノベーションを
体験することはなかった。

先史時代なら、小集団の中のだれかが
他の人よりもずっと多く持っていたら、
おそらくそれは彼がより長い教育を受けたせいでも、
より良い製品を思いついたせいでもなく、
彼が過去の恩恵への返報を拒否したせいだ。

もしも近隣の部族がこちらより多く持っているなら、
それは彼らの優れた研究や
巧みなサプライチェーンのおかげではなく、
彼らが最良の土地を横取りしたからだ。

農業到来により搾取は悪化し、
族長たちは取れるだけ取った。

それ以来エリートたちは最良の土地を
めぐって争ってきた。

なぜなら不動産業者が指摘するように、
土地はもうこれ以上作ったりできない
唯一のものだからだ。

前例のない経済成長が起きたここ200年まで
それが変わることはなかった。

だれかがこちらより多く持っていれば、
それはそいつが奪ったためで、
こっちには怒る理由があった。

またかつては、やり方を変えようとする
創造的な個人も疑ったほうがよかった。

イノベーションには常にリスクがともない、
その大半が失敗に終わるからだ。

ギリギリで生活している者は、
リスクはおかせない。

■格差拡大

経済そのものがゼロサムでなくても、
昨今のほとんどの国における格差拡大により、
それがゼロサムになりつつあるという認識が
高まりつつある。

富める者が他人を犠牲にして富み、
その富を使って特権と政治的保護を得ると
いう例は確かに存在する。

二人がどちらも豊かになった場合でも、
その速度がちがえば格差は拡大する。

ダイナミックな経済の中での格差増大は、
普通はこれだ。

金銭的な不平等にばかり注目することで、
もっと大事なことがおろそかになりがちだ。

そのお金で買える物のことだ。

アマゾン創業者のジェフ・ベゾスは
私たちよりも1000万倍金持ちかもしれないが、
本当に私たちの1000万倍も
よい暮らしをしているのか?

■タダで得ているもの

タダで得ているものを評価する術もない。

GDPも同様だ。

かつて有料だった物理的な物──
地図、カメラ、百科辞典──を
無料のデジタル版にしたら、
GDPと従来の生産性尺度は下がる。

20年前の私たちは年間800億枚の写真を撮っていたが、
それにはフィルムを買って現像する必要があり、
1枚につき50セントかかった。

だからそれはGDPに計上された。

今日私たちがスマートフォンで撮っている
2兆枚の写真のコストはほぼゼロなため、
何の価値ももたらしていないように見えている。

ゼロサム思考は、現代でも、
幼少期の兄弟関係でも生み出されると
考えます。

だから、人間の基本的な考え方の
一つといってもよいのではないでしょうか。

一人っ子の場合には、
兄弟に取られるという考え方はないものの、
兄弟に分け与えるという考え方も
生まれないわけで、
兄弟がいたほうが人間関係を経験する機会に
早くから恵まれるでしょう。

さて、先進国における現代人の生活は、
中世の王侯貴族よりも便利で豊かな生活を
送っているでしょう。

経済格差はあまり大きいと、
社会的不安定さをもたらしますが、
すべての人が安心・安全の生活を
送ることができる社会ならば、
命にかかわる争いも起きないはずです。

ですから、みんなで豊かに、という方向性が
間違いないことは確かです。

ある程度物質的欲求が満たされれば、
誰もがそれ以上の物質的欲求を
求めるわけではありません。

地位についてはどうなんでしょう。
これは、承認欲求ですね。

マズローの欲求階層論では、
・生理的欲求
・安全欲求
・所属と愛の欲求
・尊重(承認)の欲求
・自己実現の欲求
とあり、さらに
・超越欲求
とあります。

こちらにまとめています。
「アブラハム・マズロー Abraham Maslow 超まとめ」

自己実現の欲求、超越欲求は、
ゼロサム思考の範囲外です。

世の中の多くがここに向かえば、
さらに生きやすい社会になるのではないでしょうか。

あなたは、どの欲求が満たされていると感じますか。

20220520 ゼロサム思考は人間の本能だが_OPEN(14)vol.3414【最幸の人生の贈り方】

オープンかクローズドか

■翻訳者解説

●自由とは

自由はすばらしい──
自分のやりたいことである限りは。

でも実際には、社会での自由というのは、
自分が嫌いなものでも容認するということなのだ。

言論の自由というのは、
自分の嫌いな発言、聞きたくない発言でも
認めるということだ。

表現の自由というのは、
あんな低俗なエロまんが、と思ったものでも
認めるということだ。

自分たちの嫌いなもの、なじみのないものを
どこまで許容できるかが、
文化や社会としてのオープン性を決める。

するとおそらく大事なのは、
ぼくたち一人一人が「あんなもの!」「そんなのダメ!」
「規制しろ!」と言いたくなる気持ちを
少し抑えることなのだろう。

「あれはよくない」と言うのはかまわないけれど、
「禁止しろ」「排除しろ」と言ってはいけないのだ。

同時に、人にそういうことを言われたときに、
安易に空気に流されず、
無視したり抵抗したり、すっとぼけたりして、
やりたいこと、やるべきことをとにかくやることだ。

本書で分析されている、
人間の身内びいきや仲間びいき、部外者不信、
官僚制のことなかれ主義や懐古趣味といった特性は、
どうにかしようと思っても、なかなかむずかしい。

でも、そこから出てきた気持ちの表し方は、
多少は変えられる。

その積み重ねで少しずつ自分の許容範囲を
人々が拡大すれば、それが社会のオープン性拡大だ。

15回に分けて、メルマガでとりあげてきましたが、
正直なところ、私は、
「オープンかクローズドか」
という問いそのものが意味のないことだと考えています。

人類史上、必要だったから、
身内びいきや仲間びいき、部外者不信があるわけで、
クローズドは大切です。

一方、オープンによる全体の発展への寄与も
もちろん重要です。

異質なものとの交流があったからこそ、
人類は発展してきたのであり、
極端に閉鎖してしまった社会は、
文化が停滞するか、後退する事例も
ありました。

なので、問うべき質問は、
「どんな状況でオープンであったほうがよいか。」
「社会全体をオープンにするためには、
どんな条件が必要か。」
ということでないでしょうか。

例えば、自分が寝食忘れて没頭して作り出した
アイデアを実現する成果を、
きちんと評価してもらえる環境にあれば、
オープンにすればよいでしょう。

しかし、それを正当に評価される機会を奪われ、
横取りされてしまうならば、
あえてオープンにしなくても
いいんじゃないですか。

そんな環境を自ら変えることができないならば、
環境から脱出してしまい、
別の環境に移ればいいのです。

これがオープンな社会かと思います。

一方、いちいち判断するのは面倒だ、
おまかせしたい、というのならば、
自分の自由を放棄して、
自分の人生に対する権力を
手渡すのもアリかもしれません。

こういう人たちも社会にとっては大切です。

すべての状況下で、「オープンがいい」
ということはないと思うのです。

易経を読んでいると、
どんな状況でも、必ず行き過ぎという状況が
最後に来て、新たな状況を生み出すか、
反転の状況を生み出します。

大切なのは、場全体がどういう状況にあるのか、
そのなかで、どういう立ち位置にあるのか、
ということで、それによってとるべき行動は変わります。

あなたが、「そんなのダメ!」と考えるものは、何ですか。

20220521 オープンかクローズドか_OPEN(15)vol.34145【最幸の人生の贈り方】

この記事は、メルマガ記事から一部抜粋し、構成しています。

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