人はどこまで合理的か

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人はどこまで合理的か
Rationality: What It Is, Why It Seems Scarce, Why It Matters

スティーブン・ピンカー(著), 橘明美(翻訳)
草思社 (2022/7/12)

スティーブン・ピンカー Steven Pinker
ハーバード大学心理学教授。スタンフォード大学とマサチューセッツ工科大学でも教鞭をとっている。認知科学者、実験心理学者として視覚認知、心理言語学、人間関係について研究している。進化心理学の第一人者。主著に『言語を生みだす本能』、『心の仕組み』、『人間の本性を考える』、『思考する言語』(以上NHKブックス)、『暴力の人類史』(青土社)、『21世紀の啓蒙』(草思社)などがある。その研究と教育の業績、ならびに著書により、数々の受賞歴がある。米タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」、フォーリンポリシー誌の「知識人トップ100人」、ヒューマニスト・オブ・ザ・イヤーにも選ばれた。米国科学アカデミー会員。

橘 明美 たちばな・あけみ
英語・フランス語翻訳家。お茶の水女子大学卒。訳書にスティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』(草思社、共訳)、ジェイミー・A・デイヴィス『人体はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店)、フランソワ・ヌーデルマン『ピアノを弾く哲学者』(太田出版)ほか。

マイサイドバイアスという傾向があること、
ベイズ理論のさわりを知ることができたこと、
「現実のマインドセット」と「神話のマインドセット」という
視点が得られたことが、
とてもありがたかったです。

狩猟民族の合理性とわたしたちの推論の癖

■カラハリ砂漠のサン族

アフリカ南部のカラハリ砂漠に住むサン族は
世界最古の民族の一つで、
しかも彼らの狩猟採集生活は
最近まで維持されていた。

狩猟採集民とは、
たまたま見かけた動物を槍で突いたり、
近くに実っているフルーツや木の実を
もぎ取ったりする人々のことではない。

サン族は人間の最も顕著な特徴3つを生かして、
獲物が疲れ切るまで追跡しつづける
「持久狩猟」を行う。

特徴とはすなわち、
2本足(効率よく走れる)、
無毛(暑いところでも体温調節しやすい)、
大きな頭(合理的な考え方ができる)
の3つである。

彼らは理性を働かせ、
蹄の跡、糞、その他の痕跡から動物を追跡し、
相手が疲労や熱中症で倒れるまで追いつづける。

ハンターであるサン族は、
足跡の形や間隔から何十種類もの動物を
見分けることができるが、
それを助けているのは因果関係の把握である。

サン族は動物の種を見分けるだけでなく、
論理的にもっと細かく区別している。

蹄の跡から特徴的な傷や差異を見てとり、
種ではなく個体レベルで対象を見分ける。

サン族は足跡の大きさと鮮明さから
その個体の年齢を推測するし、
その足跡の時間推定さえやってみせる。

そもそも持久狩猟は、
こうした論理的前提がなければ
成り立たない。

サン族は批判的思考も身につけている。

第一印象を信じてはいけないことや、
見たいものを見てしまうという危険性について
知っている。

また権威に訴える論証を認めない。

彼らの集まりでは、
誰でも自分の考えを述べることができ(初めて参加する若者でも)、
誰を論破してもよく(相手が年長者でも)、
議論を経て何らかの合意が形成されるまで
話し合いを続ける。

サン族は仮説を立てるとき、
その証拠が各生物種にどれほど特徴的なものかによって
信憑性を調整するが、
これは条件付き確率の問題である。

さらにサン族は、事前にわかっていた妥当性に応じて
仮説の信憑性を調整する。

たとえば、足跡がはっきりしない場合は
あくまでも個体数の多い種を念頭に置き、
希少種については明確な証拠があるときしか考えない。

サン族が身につけている特筆すべき能力にはもう一つ、
因果関係と相関関係の区別も挙げられる。

サン族はきわめて効率的な狩猟技術を習得しているが、
それでいて動物を絶滅に追い込んでいない。

彼らは干ばつのときでも、
ある種の植物の最後の一本をもいだら
(あるいはある種の動物の最後の一頭を殺したら)
どうなるかを考え、
数が少ない種には手をつけない。

さらに、保護の妨げとなる密猟の誘惑
(希少種について、自分がとらなければ誰かに
とられるだけだと誰もが考えてしまうこと)を回避するため、
互恵性規範と集団の客観的な幸福の規範を
広範囲に適用してあらゆる資源を管理している。

たとえばサン族のハンターは、
手ぶらの仲間を見れば肉を分け与えるし、
干ばつ地帯からやってきた別のグループを
むやみに追い払ったりしない。

人の記憶はすぐには消えないこと、
そして自分たちもいつ逆の立場になっても
おかしくないことをよく知っているからだ。

■わたしたちの推論の”癖”

・認知反射テスト
・ウェイソン選択課題
・確証バイアス
・モンティ・ホール問題
・ギャンブラーの誤謬
・連言錯誤
・錯視
・グレーブヤード・スパイラル

わたしたちの認知システムがどれほど優れていても、
現代社会においては、どういうときにそれを信用せず、
推論を道具に任せるべきかを
心得ていなければならない。

ここでいう道具とは、
論理のツール、確率、批判的思考など、
理性の力を自然から与えられた枠を超えて
広げてくれるもののことである。

人はどこまで合理的か

書籍の紹介には、
「人の非合理性には、ある種の理由やパターンがある。
フェイクニュースや陰謀論、党派的な議論、将来への蓄えをしないこと、
国同士が凄惨な消耗戦に陥ることには、理由がある。

損を取り返そうと無茶な賭けをしたり、
わずかな損のリスクを過大評価して
有利な取引を辞退したりするのには、パターンがある。」
と書かれています。

思い当たることは、誰にでもあるでしょう。

私自身もファスト思考が
いかに間違った結論を導き出すか、
よく知っています。

そして、スロー思考が
いかに面倒かも知っています。

しかし、一度きちんと自分の中に落とし込めば、
自分がどういうときに慎重に考えなければいけないかについて、
事前に気づく可能性が高まります。

だから、どんなときに愚かな判断をしがちなのか、
知っておくことはとても大切だと思います。

あなたは、どんなときには、直感に頼ってはいけないと決めていますか。

20220728 人はどこまで合理的か_狩猟民族の合理性とわたしたちの推論の癖(1)vol.3483【最幸の人生の贈り方】

合理性と非合理性の意外な関係

■理性と感情の両立

理性と感情の2つを両立させるのは難しいことではなく、
次の3点で考えればいい。

(1)一人の人間の複数の目的のなかには、
互いに両立しないものがありうる。

(2)ある時点での目的は、
他の時点での目的と矛盾することがありうる。

(3)誰かの目的は、別の誰かの目的と
相いれないことがありうる。

わたしたちは(1)と(2)に適用される理性のことを
「分別」と呼び、
(3)に適用される理性のことを
「道徳」と呼んでいる。

■近視眼的割引

わたしたちは、未来の自分から
もっと未来の自分へと満足を遅らせることは、
多くの場合、問題なくできる。

たとえば、学会の主催者が
基調講演会の食事のメニューを事前に送ってくれたら、
わたしたちはさほど悩まずに、
ラザニアやチーズケーキではなく
蒸し野菜やフルーツのチェックボックスに
印をつけられる。

ところが、接客係がその場で
同じ選択肢を提示してくるとなると──
15分後のリッチな食事という小さな喜びと、
明日のスリムな体という大きな喜び──
わたしたちの選好は逆転し、ラザニアに屈してしまう。

このような選好の逆転のことを〝近視眼的〟という。

それは、目の前に迫っているものの魅力は
はっきり見えるが、
時間的に遠いものは〝感情的に〟ぼやけてしまい、
より〝客観的に〟判断することになるからだ。

社会科学者たちは、
未来の割引は指数関数曲線ではなく、
双曲線〔ここでは反比例の曲線のこと〕になっている
と考えるようになった。

双曲線は指数関数曲線よりもL字形に近く、
未来から現在に向かってまず急激に落ち、
それから横ばいに近づいていく。

高さの異なる2本の指数関数曲線は
交差することがないが
(今AよりBが魅力的なら、いつでもAよりBが魅力的)、
2本の双曲線は交差しうる。

■あえて無知でいるほうが合理的な場合

わかりやすい例に、ネタバレ警告がある。

生まれてくる子供の性別をあえて知ろうとしない親も多く、
それは誕生の瞬間の喜びを少しも損ないたくないからだ。

わたしたちは自分の否定的感情を理解して、
苦痛の元になりそうな情報を避けることができる。

たとえば、遺伝子検査を受ける人の多くは、
自分の父親とされている人物が
生物学的にも父親かどうかについては、
あえて知りたくないと思っている。

優れた科学者は自分の客観性を疑い、
研究に二重盲検法を用いる。

また論文は匿名査読にかけ、結果が悪くても
仕返ししたくなったりしないようにしておくし、
査読する側に立ったときも
恩返しや仕返しのために
自分の目が曇ることがないようにしている。

人質事件では、人質は犯人の顔を見ないほうが
解放される確率が高くなる。

■論理の力で論争は解決できない3つの理由

理由の一つは、論理学は論理学者にとってさえ難解なので、
誰もが往々にしてルールを誤用し、
「形式的誤謬」に陥るからである。

もう一つの理由は、そもそもルールに従おうとせず、
「非形式的誤謬」に陥る人々がいるからだ。

そしてもう一つ、もっと大きな理由がある。

それは論理学が、他の合理性の規範モデルと同様に、
ある種の知識をもって
ある種の目的を追求するのに適したツールであって、
それ以外の場合は助けにならないからだ。

■論理が万能でない理由

論理が決して世界を支配できない第1の理由は、
論理的命題と経験的命題が根本的に異なることにある。
(論より証拠)

ヒュームはこの2つを「観念の関係」と「事実」と呼び、
哲学者たちは分析的と総合的と呼んで区分している。

第2の理由は、形式論理そのものの性質にある。
(文脈や予備知識の無視)

形式論理は〝形式〟なので、
推論者の前に並べられた記号とその配列以外には目を向けない。

命題の内容──記号の意味や、
判断に関係するかもしれない文脈や予備知識──
を見ていない。

第3の理由は、わたしたちが抱く概念が、
古典論理上の属性と決定的に異なっているからである。
(家族的類似性)

「家族的類似性」というのは、
日常のありふれた概念が、
必ずしも定義できないということです。

例として紹介されていたのは、
「ゲーム」「家族」「野菜」です。

全体を網羅する共通点は必ずしもないけれど、
いくつかのステレオタイプをもっていて
人が暗黙的に分類できるものをさしています。

明確に定義できないものは、
厳密に論理的に押さえることができません。

「近視眼的割引」というのは、
おもしろいですね。

未来は、ぼやけているので、
客観的に判断できるのに対し、
目の前のものは、魅力がはっきりしているので、
感情に負けてしまうとのこと。

著者は、目の前の魅力あるものとして、
ラザニアとチーズケーキ、
将来の魅力あるものとして、
スリムな体に導く蒸し野菜やフルーツで
対比していました。

こういう実例は、いやというほど
思い浮かびますね。

こういう心理をうまく使うのが、
広告とも言えるでしょう。

必ずしも理性や論理が万能ではないということを
知っておくことは、大切ですね。

あなたは、どんなときに、自分が合理的判断をしていないと考えますか。

20220729 合理性と非合理性の意外な関係_人はどこまで合理的か(2)vol.3484【最幸の人生の贈り方】

確率にまつわる間違い

■連言確率、選言確率、条件付き確率の混同

確率の推論は脱線しやすい。

確率を考える際に次の計算を
間違えたり混同したりするからだ。

すなわち連言(論理積〔AND〕)、
選言(論理和〔OR〕)、
余事象〔NOT〕、
条件〔IF‐THEN〕の確率の計算である。

■連言確率

独立した2つの事象の連言の確率、
「P(AandB)」〔Pはprobability(確率)のP〕は、
それぞれの確率の積「P(A)×P(B)」になる。

この計算の罠は、
「2つの事象が独立している場合」という
但し書きがつくことだ。

法律の領域では、連言確率の計算式を誤用すると
単なる計算ミスではすまず、
誤審につながってしまう。

悪名高い例に、イギリスの小児科医ロイ・メドウが
主張した「メドウの法則」がある。

メドウは、「喫煙者のいない裕福な家庭で
乳幼児が突然死する確率は8500分の1であり、
それが2人続く確率はその2乗の7200万分の1である」
と証言した。

その結果、クラークは殺人罪で無期懲役の判決を受けた。

間違いを指摘したのはこの判決に驚いた統計学者たちだった。

一家庭内の乳幼児突然死は独立事象ではない。

兄弟姉妹が同じ遺伝的素因をもっていたのかもしれないし、
家庭内に危険因子があったのかもしれないし、
両親が最初の子供を失ったあとで
誤った予防措置をとったのかもしれない。

その後、他の裁判でも同様の誤りがあったことがわかり、
数年かけて何百という判決の再審理が行われた。

■条件付き確率の計算は混乱しやすいが重要

条件付き確率は「Bが起こったときに
Aが起こる確率(条件Bの下でのAの確率)」のことで、
P(A|B)と書く。

概念としては単純で、
IF‐THENのTHENの確率のことである。

条件付き確率の計算は難しくはないが、
直観ではわかりにくいので、
具体的に図を使って考えたほうがいい。

条件付き確率の失敗でもう一つよく見られるのは、
「Bが起こったときのA」と
「Aが起こったときのB」の混同である。

■後知恵確率を事前確率と取り違える誤謬

確証バイアスとは、何らかのパターンを予期すると、
それに当てはまる例ばかりを探し、
当てはまらない例を無視する傾向のことだった。

霊能者の予言が当たった例だけに注目して、
その数を予言の総数(当たった例と外れた例の合計)で
割らないとしたら、確率など何とでもいえてしまう。

■偶然の一致

後知恵確率の誤謬を誘発するのは
確証バイアスだけではない。

偶然の一致がどれほど多いかを
わたしたちが知らないことも原因になる。

偶然の一致を後知恵で認識した場合、
わたしたちにはそれが偶然ではなく、
起こるべくして起こったように思えてしまう。

精神分析医のカール・ユングは、
本来は説明を要しない本質的なこと、
すなわちこの世が偶然に満ちていることを
あえて説明しようとして、
シンクロニシティ(共時性)という
神秘的な力の概念を提唱した。

わたしが子供の頃には、今でいうミームは
インターネットではなく、漫画本や雑誌で広まった。

そのなかの一つに、
エイブラハム・リンカーンとジョン・F・ケネディの
驚くべき共通点のリストがあった。

この2人はどちらも西暦の下2桁が××46年に下院議員に、
××60年に大統領に選出された。

どちらも金曜日に、
妻が同席しているところで頭部を撃たれた。

リンカーンにはケネディという名の秘書がいて、
ケネディにはリンカーンという名の秘書がいた。

どちらも死後に大統領職を継いだのは
××08年生まれのジョンソンだった。

どちらも××39年生まれで
名前が全部で15文字になる暗殺者に殺された。

ジョン・ウィルクス・ブース(John Wilkes Boothで15文字)は
劇場から逃げて倉庫で捕まり、
リー・ハーヴェイ・オズワルド(Lee Harvey Oswaldで15文字)は
倉庫から逃げて劇場で捕まった。

薄気味悪いほどの一致だが、
これは何を意味しているのだろうか?

その答えは、ユング博士には申し訳ないが、
「統計のことをよくわかっていないわたしたちが思う以上に、
偶然の一致はよく起こる」に尽きるのであって、
それ以外には何も意味していない。

そしてもちろん、不気味な偶然の一致に誰かが気づくと、
だいたいの場合そこに尾ひれがついていき
(リンカーンにはケネディという秘書はいなかったのに、
いつの間にかいたことになってしまう)、
逆に不一致のほうは無視される
(たとえば生没の年月日は年も月も日も違う)。

人はどこまで合理的か

確率は、直観とは異なることが多く、
特に文章で語られている場合には、
注意が必要なことが多いです。

先入観もまた、間違いを引き出しやすいですね。

リンカーンとケネディの共通点は、
私も以前、目にしたことがあります。

共通点に注目すると、
そこにアンテナが立ち、
さらに、新たな共通点を生み出し、
それ以上に相違点があることに
気がつかなくなってしまいます。

これは、よいことでもあり、
悪いことでもあります。

自分の人生を振り返った場合にも
無数のイベントがあるわけですが、
その中からランダムにいくつかイベントを
選んだとしても、
そこにテーマとストーリーを
作り出すことができます。

それがハッピーであれ、悲劇であれ、
お気に入りのストーリーになると、
何度も脳内で再生され、
それがあたかも自分の人生そのものだと
思い込んでしまうようになります。

確率を理解していないが故に、
有罪になってしまうのは、避けたいことなので、
そのためにも確率は面倒だけれども、
理解しておきたいことの一つだと考えています。

しかしながら、事象が独立かどうか、
事象に相関関係、さらには因果関係があるのか、
判断することも必要です。

これは、実はあまり簡単なことではありません。

だから、学び続けることが大切だと思います。

あなたは、天気の降水確率の定義を知っていますか。

20220730 確率にまつわる間違い_人はどこまで合理的か(3)vol.3485【最幸の人生の贈り方】

全人類が学ぶべきベイズ推論

■ベイズの法則

ベイズの法則ないしベイズの定理とは、
「証拠の強さ」を扱う確率の法則で、
新しい事実を知ったり、新しい証拠を観測したときに、
どの程度確率を修正するか(考えを変えるか)を示す法則です。

あなたが次のどれかに当てはまるなら、
是非ベイズの法則を学んでください。

・科学者や医師など、統計を使う仕事をしている。
・機械学習関連の仕事に携わるコンピューター・プログラマーである。
・人間である

■ベイズ推論の範例

ベイズ推論の範例としてまず挙げておきたいのは
医療診断である。

ある地域の女性人口(母集団)の
乳癌有病率が1パーセントだとする。

そしてある乳癌検査の感度(真陽性率)が90パーセント、
偽陽性率は9パーセントだとする。

ある女性が検査で陽性になった。

この女性が乳癌である可能性は
どれくらいだろうか?

これらの数字を与えられた医師たちの答えで
最も多かったのは、
80パーセントから90パーセントだった。

だがベイズの法則に従って計算すると
9パーセントになり、これが正解である。

■ベイズの定理の説明

牧師だったトーマス・ベイズ(1701─1761)の
卓越した洞察とは、
ある仮説に対する信頼の度合いは
確率として定量化できると考えたことだった。

この仮説の確率、つまりその仮説は正しいといえる信頼度を
「P(仮説)」と書き表すことにしよう。

いうまでもなく、わたしたちが
何かを信じる度合いは証拠次第である。

確率でいうなら、信頼度とは
証拠を条件とする条件付き確率でなければならない。

だとすれば、わたしたちが求めるのは
「データが与えられたときの仮説の確率」、
すなわち「P(仮説|データ)」である。

これはすなわち、証拠を検証したあとの、
ある説に対する信頼度のことなので、
「事後確率」と呼ばれる。

Bが起こったときにAが起こる確率は、
「〈AかつB〉の確率」を「Bの確率」で
割ればいいのだった。

したがって、わたしたちが求める
「データが与えられたときの仮説の確率」は、
「〈仮説かつデータ〉の確率」を、
「データの確率」で割ればいい。

方程式にすると、
P(仮説|データ)=P(仮説andデータ)/P(データ)
となる。

「AかつB」の確率は、Aの確率に、
Aが起こったときにBが起こる確率をかければいいのだった。

これらを当てはめれば、ベイズの法則の式になる。

P(仮説|データ)=P(仮説)XP(データ|仮説)/P(データ)

用語に置き換えると、

事後確率=事前確率X尤度(ゆうど)/周辺確率

事後確率:証拠を見たあとで更新した、
仮説に対するわたしたちの最新の信頼度

事前確率:データを見る前の仮説に対する信頼度

尤度:「仮説が正しいとしたら、
そのようなデータが得られる可能性はどれくらいか」

周辺確率:仮説の真偽にかかわりなく、
そのようなデータが得られる全体的な確率。
もっと簡単にいえば、
そのデータがどのくらい一般ないし普通に見られるかである。

式を文章にすると、
「証拠を見たあとの仮説に対する信頼度は、
その仮説に対する事前の信頼度に、
仮説が真である場合にその証拠が得られる可能性をかけ、
それを証拠が全体のなかでどの程度一般的かで割ったものである」

■基準率を無視すること

基準率無視は、物事をステレオタイプで考える
要因の一つということもできる。

また、基準率が見えていないと、
多くの人が不可能を要求するようになる。

誰が自殺しそうかをなぜ予測できないんだ?
銃乱射事件の早期警告システムはどうしてないんですか?

どこにでもいるわけではない人物像を、
完璧とはいいがたい手法で洗い出そうとすると、
誤認が頻発するからだ。

■事前確率を無視すること

実はここで述べている基準率無視は、
事前確率無視の特殊な例である。

事前確率は「証拠を見る前の状態で、
わたしたちがある仮説に寄せるべき信頼度」という、
基準率よりもっと不明瞭な、だがきわめて重要な概念である。

ところで、証拠を見る前に何かを信じるなど、
それこそ非合理の典型であり、
偏見、バイアス、ドグマ、正統主義、先入観と同様に
退けるべきものだと思う人もいるのではないだろうか。

だがよく考えてみれば、事前の信頼度というのは、
単に過去のすべての経験によって積み上げられた知識を
意味しているにすぎない。

したがって、あるとき証拠を見て得られた事後確率が、
次のときは事前確率になることもあり、
これを「ベイズ更新」と呼ぶ。

ベイズ更新は、生まれてしばらくすれば
誰でも実践する考え方だといえる。

人間は不確実な世界に生きていて、
しかも誤りを犯しがちなのだから、
正当化された信念(justified belief)を
見つけたばかりの事実と
同等視することはできない。

人はどこまで合理的か

Wikipediaの「ベイズの定理」の説明が
なんのこっちゃと、理解できなかったので、
本文の引用が長くなりました。

乳癌の検査で陽性だったときに、
乳癌の確率はどれくらいか?

約9パーセントと知っているか、
約90パーセントと考えてしまうか。

これは、人生の質を大きく変えてしまうのではないでしょうか。

ちなみにマンモグラフィーは、
偽陽性率が高いことが知られていて、
私は、乳癌でもないのに、陽性って出たらいやだなあと思って、
受けないことを決めている健康診断のひとつです。

好奇心がまさって、
どんなものか知りたいので、
1回だけ受けたことはありますが、
もう受けません。

新型コロナウイルスのPCR検査も
発明したノーベル化学賞受賞のマリス博士が
「PCRは、病原体の検査に使ってはならない」と
注意喚起したにも関わらず、
世界中で使用される状況になっています。

いまや、新型コロナウイルスPCR検査
(抗原検査も含まれているかもしれませんが)
の陽性者イコール感染者としてカウントされています。

死者数も死因がなんであれ、
コロナウイルスの検査で陽性だったら、
コロナウイルスでの死者としてカウントすることに
なっている国もあります。(お金が出る)

データが溢れているようで、
本当に意味のあるデータかどうかの議論は
置き去りになっているように見えます。

データを見ることは大切だけれど、
間違ったデータや分析に振り回されることは
避けたいものです。

とはいえ、以下のような見出しは、
うっかり開いてしまいますよね?

「ダーウィンは間違っていた?
アインシュタインは間違っていた?
新進気鋭の若手が科学の常識を覆す。
……における科学革命。
あなたが……について知っていることはすべて間違いだった!」

そして、ときたま、不思議なことが起こることも
また事実です。

これをどう捉えるか。

一人でも成功した人がいれば、自分でもできると思うか。

いつでも合理的に考えるのは、簡単ではなさそうですね。

あなたは、検査を受けることの是非を、何で判断していますか。

20220731 全人類が学ぶべきベイズ推論_人はどこまで合理的か(4)vol.3486【最幸の人生の贈り方】

信号とノイズをどう扱うか

■リスクと報酬の比較

リスクと報酬の比較は医療の判断材料ともなり、
こちらははるかに重い結果を伴う。

「癌のスクリーニング検査は癌を発見できるから受けるべきだ」
「癌の手術は病巣を取り除けるから受けるべきだ」
というように、医師も患者も等しく傾向で判断しがちである。

だがコストと便益に確率で重みづけして考えると、
良いものが悪いものに変わることもある。

毎年卵巣癌の超音波検査を受けるグループと、
受けないグループのその後の結果を追った研究によれば、
定期検診を受けていた女性1000人当たり6人が
正しく卵巣癌と診断されていたが〔真陽性〕、
検診を受けずに卵巣癌が見つかったのも
女性1000人当たり5人とほぼ変わらず、
死亡数はどちらも同じ3人だった。

ここまでが効果だが、ではコストはどうだろうか。

毎年検査を受ける女性1000人当たり94人が
実際には卵巣癌ではないのに陽性となり〔偽陽性〕、
そのうち31人が不要な摘出手術を受けていて、
おまけにそのうち5人は重い合併症を患っていた。

検診を受けない場合は、もちろん不要な手術を受ける恐れはない。

卵巣癌のスクリーニング検査の期待効用が
マイナスであることは簡単な計算でわかる。

男性の前立腺癌のPSA検査(前立腺特異抗原検査)も
同様である(わたしは受けていない)。

■統計的有意性

だいぶ昔に決められたことで、
誰によって決められたのかもよくわからないのだが、
科学的取り組みにとっては
第1種の過誤(効果がないのに効果があると判断すること)がとりわけ有害なので、
ごくわずかしか容認できないとされ、具体的にはその許容される割合は
「帰無仮説が真である研究の5パーセント」と決まっている。

これが「統計的有意性」の意味するところで、
要するに発見の早とちりを抑えるための一手法である。

では、p<0.05で統計的に有意な結果を得たならば、
次のことも断定できるのだろうか?

●帰無仮説(効果がないとする仮説)が真である確率は5パーセントに満たない。
●効果がある可能性が95パーセント以上である。
●帰無仮説を棄却した場合、
その判断が間違っていたことになる可能性は5パーセントに満たない。
●研究を再現すれば、それが成功する確率は95パーセント以上である。

統計的有意性はベイズ推論でいう尤度のこと、
つまり「仮説(この場合は帰無仮説)が真であるときに
そのようなデータが得られる確率」のことである。

これに対して、ここに挙げた命題は
いずれもベイズ推論の事後確率、
つまり「そのデータが得られたときに仮説が真である確率」のことだ。

それが最終的に手に入れたいものであり、
そもそもそのために研究するのだが、
有意差検定によって手に入るのはそれではない。

科学者は、事前確率(帰無仮説が真である確率についての、
実験を行う前の最善の推測)も考慮に入れるのでないかぎり、
有意差検定の結果から帰無仮説の真偽を判定することはできない。

人はどこまで合理的か

人は、得を得るよりも、損失を恐れる傾向にあるので、
同じ確率を表す表現だけれども、
その表現によって、違う選択を選びがちということも
書かれていました。

同じ事象だけれども、表現によって、
どちらを選択させるか、恣意的に変更することは
可能だということでもあります。

検診を受けたほうがよいかどうかということは
あまり議論を見かけないですが、
私は、正社員になると健康診断が義務になるので、
それが雇用されたくないという理由の一つにも
なっています。

すべての人が健康診断を受けない方がよいと
言っているわけではなく、
受けたい人は受ければいい、
受けないひとは受けなければいい
という考えです。

さて、統計を見るときに、統計的有意性には
気をつけていたつもりですが、
それでも片手落ちだったのだなと反省しました。

これは、ベイズ推論が難しそうだということで、
あえて知ろうとしていなかったことに起因します。

昨日のメルマガで、
ベイズ推論をわかりやすく伝えられたという自信は
もっていませんが、
知っておくことは大切だと改めて知った次第です。

統計的有意性が得られたとしても、
20分の1の確率で、
まちがった推論があたかも正として、
入り込んでいることになります。

そして、自分の信じる理論が、
その20分の1か、20分の19かの
どちらに入っているかは、わかりません。

そういうことは知っておいてよいことだと思います。

あなたは、合理的に判断しようとするときに、数字をどのように見ますか。

20220801 信号とノイズをどう扱うか_人はどこまで合理的か(5)vol.3487【最幸の人生の贈り方】

相関関係と因果関係

■因果をつなぐのは一本道ではなくネットワーク

ベイジアンネットワークを発明した
コンピューター科学者のジューディア・パールによれば、
このネットワークは図に示した
3つの単純なパターンで構成されている。

「チェーン(連鎖)」と「フォーク」と「コライダー(合流点)」の3つで、
それぞれが、原因が1つではない因果関係の
基本的(だが直感的ではない)特徴をとらえている。

●チェーン
A→B→C

●フォーク
→A
B
 →C

●コライダー
A→
  B
C→

矢印が示すこれらのつながりは
条件付き確率を表している。

3つのどのパターンでも、
AとCは直接にはつながっていない。

したがって「Bが起こったときにAが起こる確率」は、
「Bが起こったときにCが起こる確率」とは無関係に指定できる。

そして各パターンは、A、B、Cについて
それぞれ特徴的な関係を示している。

チェーンの場合、第1原因であるAは
最終的効果であるCとは隔てられていて、
Bを介してのみ影響を与えうる。

Cに関するかぎり、Aは存在しないも同然である。

フォークは、真の原因を誤認させる危険性を孕んだ
交絡ないし随伴現象を表している。

たとえば、子供は成長するにつれて足が大きくなり、
また語彙も増えていくので、
年齢(B)は語彙量(A)にも靴のサイズ(C)にも影響する。

つまり語彙量と靴のサイズには相関関係がある。

だからといって、
「入学前のお子さんに大きなスニーカーを履かせれば、
(語彙が増えて)学校の勉強も良いスタートが切れますよ」
ということにはならない。

危険なのが、無関係の複数の原因が
一つの効果に収束するコライダーである。

コライダーの罠は、ある効果だけに着目すると、
複数ある原因のあいだに実際にはない負の相関を
読み取ってしまうという点にある。

これは、原因同士が補完関係にあるからだ。

■その相関は因果関係か──ランダム化と自然実験

あるものが他のものと相関関係にあるからといって、
必ずしも前者が後者を引き起こしたとはいえないという点である。

わかりきったことだが、AがBと相関関係にある場合、
(1)AがBを引き起こしているのかもしれないし、
(2)BがAを引き起こしているのかもしれないし、
(3)第3の要因CがAとBの両方を引き起こしているのかもしれない。

こうした〝結び目〟を解きほぐすのにもってこいの方法が、
「無作為抽出実験」である。

「ランダム化比較試験(RCT)」とも呼ばれる。

まず関心のある母集団から大きい標本を抽出し、
無作為に2つのグループに分ける。

そして想定される原因を第1グループに適用し〔実験群〕、
第2グループには適用せず〔対照群〕、
前者が変化するかどうか、後者が変化しないかどうかを
見るというやり方だ。

RCTの知恵は政治、経済、教育の分野でも生かされつつある。

とはいえ無作為抽出実験も万能薬ではない。

たとえ1つの実験であっても、
そこで試すことを厳密に1つに絞ることはできないからだ。

実験者としては1つの治療法について管理し、
実験群にはそれだけを処方したつもりでも、
実際には他の変数が絡んでいるかもしれないという
排除性の問題がある
[実験群と対照群のあいだに、
実験者が気づかない違いが生じた場合など]

何でもかんでも実験できるわけではない。

そこで社会科学者は知恵を絞り、自分ではなく、
この世界のほうがランダム化してくれる事例を探し、
その結果を観察して研究するようになった。

それが自然実験であり、そのおかげでわたしたちは
時折、相関関係の錯綜する世界から
何らかの因果関係を引っぱり出すことができるようになった。

■「主効果」「交互作用」

回帰分析で重要なのは、方程式そのものよりも、
方程式の構造が示している根本的発想である。

すなわち事象には複数の原因があり、
そのすべてが統計的だということだ。

原因が複数あるという発想がすでに浮かびにくいのだから、
複数ある原因同士が互いに作用するという発想は
もっと浮かびにくい。

だが現実には、ある原因の効果が
他の原因に依存する場合が少なくない。

こうした発想が浮かびにくいのは、
わたしたちが複数の原因について
考えたり語ったりするための語彙を身につけていないからでもある。

したがってこの点についても、
ほんのいくつかの基本的な統計学の概念を学ぶことで
誰もが賢くなれる。

その便利な概念が「主効果(main effect)」と
「交互作用(inter action)」である。

人はどこまで合理的か

私たちは、ものごとの因果関係、相関関係を
シンプルに見ようとし過ぎているのかもしれないですね。

特に人間の行動は予測しきれないようです。

AIに行動をすべて先回りされてしまうという恐れは
現在のところ、そんなに心配しなくてもよいのではないでしょうか。

よく考えてみれば、自分の行動も冷静に振り返ってみれば、
不可解なことは、いくらでも見つかると思います。

年間計画どころか、当日の予定ですら、
ままならないことは、よくあることです。

だからといって、無計画が最もよいかというと、
そんなこともないでしょう。

大切なことは、
1か0で判断しない、
物事はシンプルな原因・結果ではなく、
ネットワークで絡み合った原因・結果で
成り立っている、
と考える習慣をもつことだと思います。

組織でいえば、複数の人間がそれぞれ思考と行動の習慣をもち、
それぞれが意図をもっています。

そして、個々の人間は、複数の因果関係をもち、
それぞれのタイミングに左右されます。

単純にいかないのは当然でしょう。

同じように、人のからだも複数の要因をもって、
今の健康状態を保っていると考えます。

単純な要因で問題を解決できるわけではないと
改めて思いました。

あなたは、ものごとの因果関係をどのように見出していますか。

20220802 相関関係と因果関係_人はどこまで合理的か(6)vol.3488【最幸の人生の贈り方】

デマや陰謀論、フェイクニュースがなくならない理由

■マイサイドバイアス

人はある結論にたどり着くために、
あるいはある結論から逃れるために推論するのであって、
それが個人的に得にならなくても
そうする場合があるということである。

要するに目指す結論が、自分が属している
政治的、宗教的、民族的、文化的な集団の正しさや気高さを
裏づけるものであればいい。

これは明らかにマイサイドバイアスであり、
このバイアスはあらゆる種類の推論を
(論理的なものも含めて)乗っ取ってしまう。

心理学者のキース・スタノヴィッチは、
マイサイドバイアスは人種、性、認知スタイル、
教育レベル、IQを問わずに見られると述べている。

マイサイドバイアスは個々人の全体的な性格特性ではなく、
その人のアイデンティティーに接続されている
スイッチや緊急ボタンのどれかが押されると
〔アイデンティティーにかかわる誘因や願望のどれかが刺激されると〕
作動するという特殊なものである。

スタノヴィッチはこのバイアスを
今の政治的状況に関連づけている。

わたしたちが今生きているのはマイサイドの社会であり、
それこそが問題なのだという。

ここでいう「サイド」は右か左かということで、
どちらも真実を信じているのだが、
何が真実かについてはまったく違う考えをもっている。

このマイサイドバイアスがわたしたちの議論に侵入し、
そこかしこにはびこりつつある。

■陰謀論は「神話のマインドセット」の信念

わたしたちは世界を2つのゾーンに分けている。

一つは、自分を取り巻く物質、直接顔を合わせる人々、
彼らとの交流の記憶、そして自分の暮らしを律する
規則や規範からなるゾーンである(以後〈現実ゾーン〉とする)。

このゾーンについて、人はおおむね正確な信念をもっていて、
その範囲内では合理的に推論する。

そこに現実の世界があると信じていて、
そこでは信念は真か偽のどちらかであることも信じている。

だがそれはほかに選択肢がないからだ。

車にガソリンを入れたり、銀行に金を預けたり、
子供に服を着せたり食べさせたりするには、
それが唯一の方法だからである。

このようなものの見方を
「現実のマインドセット(reality mindset)」
と呼ぶことにしよう。

もう一つのゾーンは直接経験を超える世界である。

すなわち遠い過去、予見できない未来、遠く離れた場所や人々、
手の届かぬところにある権力の回廊、
そしてミクロの世界(顕微鏡の世界)、マクロの世界(宇宙)、
反事実、形而上学などの世界のことだ(以後〈神話ゾーン〉とする)。

このゾーンで起こることについて人は思いをめぐらせはするが、
そこで何かを発見することはできないし、
発見したところで生活に目に見える違いが生じるわけではない。

このゾーンにおける信念はわたしたちを
楽しませたり、刺激したり、道徳的に啓発したりする物語であり、
それが「真」か「偽」かを厳密に問うのは無意味である。

この種の信念の役割は、人々を部族や宗派にまとめて
道徳的目的を与えるような社会的現実を構築することにある。

このようなものの見方を
「神話のマインドセット(mythology mindset)」
と呼ぶことにしよう。

啓蒙主義の子供であるわたしたちは、
普遍的リアリズムという過激な信条を抱いている。

自分の信念のすべてが「現実のマインドセット」の範疇に
入らなければならないと思っている。

これに対してもともとの人の心は、
遠い領域の存在を「神話のマインドセット」
で理解するように適応している。

それはなにもわたしたちが更新世の狩猟採集民の子孫だから
という特定の理由によるものではなく、
普遍的リアリズムという啓蒙主義的理想を知らなかったし
受け入れる環境にもなかった人々の子孫だからである。

自分の信念を丸ごと理性と証拠の審査に委ねるというのは、
読み書き計算と同じく不自然なスキルであって、
教え込まれ、啓発されて初めて身につくものなのだ。

その後「現実のマインドセット」による征服が進んだとはいえ、
「神話のマインドセット」は今でも主流の信念のなかの
多くの領域を占めている。

幸いなことに現在のキリスト教信者たちは、
そこから必然的な一歩を踏み出して、
他の人々に刀を突きつけてキリスト教に
改宗させようとしたりはしないし、
自分たちを地獄に誘い込むかもしれないからと
異端者を拷問することもない。

だが過去の、キリスト教信仰が〈現実ゾーン〉にあった
何世紀ものあいだには、
多くの十字軍、審問官、コンキスタドール、
宗教戦争の兵士たちがまさにそれを行っていた。

現在では、ありがたいことに、
西洋の宗教的信念は分別をもって
〈神話ゾーン〉にとどまっている。

そしてその〈神話ゾーン〉では
多くの人々が信仰の独立を保護しようとしている。

宗教に続いて、非現実の主流として挙げておくべき領域が
国家神話である。

ほとんどの国が、建国の物語を
国民の集合意識の一部として大事にしている。

国家神話や建国伝説を守ろうとする人々は
史実の解明が必要だとは思っておらず、
歴史学者がこれらを〈現実ゾーン〉に置いて、
その国の歴史が実は浅いことや、
アイデンティティーが作り上げられたものであることや、
近隣諸国との実際の力関係や、
建国の父祖にも欠点があったことなどを
掘り起こそうとすると、不快感をあらわにすることがある。

真とも偽ともいいがたい領域はもう一つある。

歴史フィクションとフィクション化された歴史である。

近年の戦争や闘争のフィクション化された歴史も同じことで、
それらは実のところ、最近になって作られた
フェイクニュースである。

〈現実ゾーン〉と〈神話ゾーン〉の境界線が
どこに引かれるかは時代によって変わり、
文化によっても変わる。

啓蒙時代以来、近代西洋社会の潮流は
〈神話ゾーン〉を徐々に浸食してきた。

この歴史的変遷のことを社会学者のマックス・ヴェーバーは
「世界の脱魔術化」と呼んでいる。

しかし境界線での小競り合いがなくなったわけではない。

つまりトランプ流の「ポスト真実」の
白々しい嘘や陰謀論の数々も、
政治的言説を〈現実ゾーン〉ではなく
〈神話ゾーン〉のものにしようとする試みと
考えることが可能である。

だとすれば、伝説や聖典やドラマの筋書きと同じように、
それらも一種の芝居であって、
実証可能な方法で真偽をはっきりさせようとしても
意味がないことになる。

人はどこまで合理的か

いくつか、興味深い考え方が紹介されています。

「マイサイドバイアス」という言葉は、
初めて聞きましたが、
自分の中にも「マイサイドバイアス」が
あることを見つけました。

自分の信念を裏付けるものがあるかどうかは
真剣に探すけれど、
信念を反証するものは、そこまで真剣に探さない
という傾向のことです。

これは、人種、性、認知スタイル、
教育レベル、IQを問わずに見られるそうです。

マイサイドバイアスですれ違う限り、
何が真実か議論しても、
埒が明かないことになります。

なるほど〜〜〜

そして、もう一つ興味深い考え方として、
「現実のマインドセット」と
「神話のマインドセット」というのが
ありました。

自分の信念のすべてが「現実のマインドセット」の範疇に
入らなければならないと考えるのは、
現代の啓蒙主義特有の考え方であり、
人類は長い間、「神話のマインドセット」で
遠い領域のことを理解してきたとのことです。

「神話のマインドセット」では、
「真」か「偽」かを厳密に問うのは無意味である
ということです。

なるほど、こういう分け方もわかりやすいですね。

「現実のマインドセット」=科学、現実
「神話のマインドセット」=宗教、物語
と、もしきれいに分けられるなら、
混同しづらいのかもしれませんが、
実際には難しです。

というのも、科学の中で、実証されていない仮説は
たくさんあり、これは物語と位置付けられても
おかしくありません。

現実といっても、ある視点から見た現実が、
他の視点から見た現実と同じではありません。

また、本文に書いてあるように、
史実に基づいた映画や小説であっても、
そこにはフィクションが織り交ぜてあります。

となると、境界はあいまいになります。

私は歴史小説や歴史ドラマを見るのが好きですが、
史実の年表と比べてみると、
実際と異なっていたりすることは、よくあります。

生物学や物理学でも、新しい発見があると、
それまでの真実が覆されることはあるので、
今現在の最良の解釈ととらえておくほうが
間違いないのではないかと考えます。

「現実は、今、五感で感じられるものだけである」という
狭い定義をしておけば、
そのほかは、すべてが思考の働きになります。

これくらいの割り切り方でいれば、
いいのではないかと思います。

あなたは、現実をどのように定義していますか。

20220803 デマや陰謀論、フェイクニュースがなくならない理由_人はどこまで合理的か(7)vol.3489【最幸の人生の贈り方】

人はなぜ擬似科学・超常現象に騙されるのか

■人はなぜ擬似科学・超常現象に騙されるのか

疑似科学、超常現象、そしていんちき療法は、
人間の心の最も深いところにある
認知直感〔直感的な認知機能〕の一部に働きかける。

人間は直感的な二元論者で、
心は体とは別に存在しうると感じている。

わたしたちはごく自然にそう感じるのだが、
その理由は、自分や人の信念や願望を作り出している
神経ネットワークが見えないからだけではない。

心が体につながれていないことを、
わたしたちの経験の多くが示唆しているからで、
そのような経験には夢、トランス状態、幽体離脱、
そして死も含まれる。

人間にとっては、心が物理的な媒体を必要とせずに
現実と、また他の心と交信できると考えることに無理はない。

だからわたしたちはテレパシー、予知能力、霊魂、幽霊、
生まれ変わり、あの世からのメッセージなどを
信じがちになる。

また人間は直感的な本質主義者でもあり、
生物にはわたしたちの目に見えない謎の物質が含まれていて、
それが形や力を与えていると感じている。

人が植物の種、薬になる成分、毒などを
調べるようになったのも、そうした直感によるものだ。

だがその同じマインドセットが、
同質療法、ハーブ療法、瀉下と瀉血などを信じることや、
ワクチンや遺伝子組み換え食品といった異物の混入を
一切拒否することにつながっている。

さらにわたしたちは直感的な目的論者でもある。

人間は何らかの目的があって
計画を立てたり物を作ったりするので、
他の生物や非生物の複雑な世界にも
目的があると考えたがる。

そのせいで、創造説、占星術、シンクロニシティ(共時性)、
あるいはすべての事象には理由があるという
神秘主義的な考えを受け入れがちになる。

だが残念ながら、多くの人にとっては
科学体系と疑似科学の線引きは曖昧でよくわからない。

日常生活で科学を最も身近に感じるのは
医師の診断を仰ぐときだろうが、
一般の診療に当たる医師は
ランダム化臨床試験の専門家というより
民間治療師に近い。

正真正銘の科学コミュニケーターも
この問題と無縁ではない。

疑似科学を見抜けない人が多いのは、
科学の本当の理解を広めることが
できていないからであり、
その点では彼らも責任の一端を
担わなければならない。

学校でも博物館でも、
科学の提示方法には問題がある。

だがこのままでは、科学教育から得られるものが混沌として、
重力や電磁気力が、超能力、気、カルマ、水晶療法などと
ごちゃまぜになるのは避けがたい。

■陰謀論が蔓延しやすいのには理由がある

陰謀論はどうかというと、これが蔓延するのは、
実際に人間が昔から陰謀に悩まされてきたからである。

狩猟採集民も常に陰謀を警戒しなければならなかった。

部族間の衝突で最も大量の死者が出るのは
全面対決ではなく、
待ち伏せ攻撃や夜明け前の奇襲攻撃である。

敵の陰謀による攻撃は、
肉食動物に襲われるとか落雷に見舞われるといった危険とは
質が異なる。

なにしろ相手は知恵を絞って身を潜め、
こちらの隙を突いて防御を突破してくる。

信号検出理論でいえば、
本当の陰謀を見逃すコストが、
怪しげな陰謀論に誤った警告を出すコストよりも大きくなる。

したがって、反応バイアスを
右に移動させる(厳しくする)のではなく、
左に移動させ(緩くする)、
どんな弱い証拠でもいいから陰謀の気配を察知しようと
躍起にならざるをえない。

今日の社会でも、現実に大小さまざまな陰謀が渦巻いている。

社員が密かに結託して気に入らない同僚を
解雇に追い込むこともあれば、
政府もしくは反体制派が
クーデター、侵略、破壊工作を秘密裏に計画することもある。

日常においても、隠れた危険について警告する、
または警告を広める伝達役になることには
インセンティブがある。

だが今日の問題は、
ソーシャルメディアとマスメディアによって、
噂の内容とは何の関係もない大勢の人々のネットワークが
噂を広める仕組みができあがったことにある。

彼らは自己防衛のためではなく、
娯楽やアファメーション〔一種の自己暗示〕として
情報を消費するので、
噂の真偽を追求するつもりもなければ、
その手段も持ち合わせていない。

人はどこまで合理的か

「陰謀論が蔓延しやすいのは
実際に人間が昔から陰謀に悩まされてきたからである。」

なるほど。

身近なところに陰謀があるからこそ、
もっと大きな陰謀があるに違いないと
考えるのです。

自分が陰謀を企てるから、
相手も陰謀を企てるに違いないと
考えるのです。

信頼をベースにするのか、
疑念をベースにするのか、
どう考えるのかは、結局のところ、
自分の選択ではないかと考えます。

陰謀論を信じることの利点の一つは、
社会が悪いことを自責ではなく、
他責にできるというのもあると思います。

この場合、自分の考え方や行動に
向き合ったり、振り返ったりする必要が
なくなります。

しかし、同時に、自分の効力感を
手放すことにもなります。

どちらが好みですか。

何が正しい、正しくないというのを
追求しても、結局は価値観の相違に
ぶつかるのではないかと考えます。

自分の価値観を支持する証拠は丹念に探すけれど、
自分の価値観を否定する証拠は、
それほど熱心に探しません。

そういう傾向があるということを
自己認識しておかないと、
自分の価値観を支えるものだけに囲まれた世界に
こもってしまうことになりがちです。

とはいえ、自分の価値観をもつことは大切。

それを絶対ではなく、
非合理かもしれないと疑う余地は持ちつつ、
必要があれば、変えていくという柔軟性も
もっていることが必要だと考えます。

あなたは、直感と合理性をどのように使い分けていますか。

20220804 人はなぜ擬似科学・超常現象に騙されるのか_人はどこまで合理的か(8)vol.3490【最幸の人生の贈り方】

この記事は、メルマガ記事から一部抜粋し、構成しています。

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