ストーリーが世界を滅ぼす―物語があなたの脳を操作する ⭐️9

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ストーリーが世界を滅ぼす―物語があなたの脳を操作する
The Story Paradox: How Our Love of Storytelling Builds Societies and Tears them Down
ジョナサン・ゴットシャル(著), 月谷真紀(翻訳)
東洋経済新報社 (2022/7/29)

ジョナサン・ゴットシャル Jonathan Gottschall
ワシントン&ジェフーソン大学英語学科特別研究員
ジョナサン・ゴットシャル(Jonathan Gottschall)
ワシントン&ジェファーソン大学英語学科特別研究員。著書にニューヨーク・タイムズ紙エディター選に入った『The Storytelling Animal』(未邦訳)、ボストン・グローブ紙のベストブック・オブ・ザ・イヤーに選出された『人はなぜ格闘に魅せられるのか――大学教師がリングに上がって考える』(松田和也訳、青土社)がある。ペンシルヴァニア州ワシントン在住。

月谷真紀 つきたに・まき
翻訳家。上智大学文学部卒業。訳書に『ネクスト・シェアーーポスト資本主義を生み出す「協同」プラットフォーム』(東洋経済新報社)、『政府は巨大化するーー小さな政府の終焉』(日本経済新聞出版)、『わかりあえない他者と生きるーー差異と分断を乗り越える哲学』(PHP新書)、『自分で「始めた」女たち』(海と月社)、『大学なんか行っても意味はない?――教育反対の経済学』(みすず書房)などがある。

私たちがストーリーから逃れられないなら、
せめて、自分でハッピーエンドのストーリーを作り出して
その色眼鏡で世界を眺めるというのは、
楽観的すぎるのでしょうか。

物語パラドックス

■この本の教訓

もしあなたがこの本を読み終えたとき手にする教訓が
一つだけあるとしたら、
それはこの一言になるはずだ。

物語の語り手を絶対に信用するな。

■物語

本書が取り上げるのは物語パラドックスである。

物語は古くから人類にとって
恵みであり、災いでもあった。

物語は私たちの病であり、癒しでもある。

破滅も救済も物語がもたらす。

私たちを狂わせ残酷にしているのは
ソーシャルメディアではなく、
ソーシャルメディアが拡散する物語である。

私たちを分断するのは政治ではなく、
政治家たちが楔を打ち込むように語る物語だ。

地球を破壊する過剰消費に
私たちを駆り立てているのはマーケティングではなく、
マーケッターが紡ぎ出す「これさえあれば幸せになれる」
というファンタジーだ。

私たちが互いを悪魔に仕立て上げるのは
無知や悪意のせいではなく、
善人が悪と戦う単純化された物語を
倦むことなくしゃぶり続ける、
生まれながらに誇大妄想的で
勧善懲悪的なナラティブ心理のせいだ。

今、私たちがみずからに問うことのできる
最も差し迫った問いは、さんざん言い古された
「どうすれば物語によって世界を変えられるか」ではない。

「どうすれば物語から世界を救えるか」だ。

ストーリーが世界を滅ぼす

この著者の未邦訳の『The Storytelling Animal』は、
副題が How Stories Make Us Humanです。

物語が世界をよりよい方向に変えることを書いた本です。

しかし、『ストーリーが世界を滅ぼす』で今回とりあげるのは、
物語が世界を悪い方向に変えることを書いた本です。

強力な道具というのは、
よい目的にも悪い目的にも使えます。

そして、私たちは、さまざまな物語の中で
生きているものです。

自分が自分自身に語りかけている物語を
現実化するために生きているといっても
過言ではないと考えます。

同時に、自分で、世界の物語を
つくっているとも言えます。

自分がどんな物語のパターンを使い易いのか、
一歩引いて俯瞰してみないと、わかりません。

自分の物語からいったん離れて眺めることで
脚本を書き換えることが可能になります。

どんなことを自分は信じているのか。
当たり前だと思っているのか。

自分が語っている物語は、
自分と世界を思っている通りの方向に導いているのか、
そうではないのか。

そんなことを考えるヒントにしたいと思います。

あなたは、今の自分が、どんな人生の途中にあると、自分に語りかけていますか。

20221006 ストーリーが世界を滅ぼす―物語があなたの脳を操作する(1)vol.3553【最幸の人生の贈り方】

なぜダイバーシティが受け入れられるようになったのか

■左傾化するアメリカ

私たちは、アメリカが永久に左派と右派に
真っ二つに分断された国だと考えている。

しかし、最近まで在任していた第45代大統領を思うと
信じがたいかもしれないが、
アメリカはこの数十年で非常にリベラルになった。

現在保守派を自認する人々は、
一世代前に保守派を自認していた人々よりも、
総じてリベラルな考え方を持っている。

この着実に進む左傾化──
および、たびたび起きては鎮火されてきた反動──の
要因はたくさんあるが、
ハリウッドのストーリーテラーたちの
功績(あるいは罪)が大きいという説に
私は同意する気持ちになっている。

ハリウッドにおける左派支配がアメリカを
多様性と平等という健全な理想の下に結集したのか、
楽しませながら文化を侵食し洗脳状態にしているのかは、
見る側の政治的見解によるだろう。

左派思想家はこれを、土着の文化をゆるやかに服従させて
全世界にアメリカ人と同じ思想、言語、服装、購買行動を押し付け、
ひいてはアメリカの現実離れした美の基準や魂のない物質主義を
受け入れさせる、帝国による無血征服とみなしている。

アメリカはポップアートの征服を主な手段として
帝国化を果たした最初の国家だ、と彼らは言う。

■同性婚への支持

報道番組『ミート・ザ・プレス』の2012年の登場回で、
当時副大統領だったジョー・バイデンは
同性婚への支持を表明しただけでなく、
同性愛に対するアメリカ人の見方の
歴史的な変化を引き起こしたのは
ドラマ『ふたりは友達?ウィル&グレイス』だと発言して、
視聴者を驚かせた。

同性愛に理解ある態度の予測変数としては、
性別、教育水準、年齢、さらには支持政党や所属する宗教よりも、
同性愛の友人か家族と日常的に接しているかどうかのほうが
優れている、という研究結果が出ている。

しかも、これは私たちがフィクションの登場人物との間に
形成する架空の人間関係についても言えるらしい。

メディアの中の人物と本物のように思えるつながりを作る性向が
人間にあるというのは驚きだろうが、
自分の余暇の使い方を思い返せばわかるはずだ。

私たちは一日に何時間もテレビの登場人物との
バーチャルな社交に没入する一方で、
家族や友人とは平均40分ほどしか交流しない。

フィクションに没入しているとき、
私たちは実在の人々に対してとまったく同様に
登場人物についての見解を形成し、
集団全体にその見解を広げる。

異性愛者の視聴者は『ウィル&グレイス』
『モダン・ファミリー』『シッツ・クリーク』のような
ドラマで好感の持てるゲイの登場人物を見ているうちに、
彼らを応援し、共感するようになる。

それが現実の世界にいるゲイの人々への態度を
形成していく。

■ダイバーシティ

このような研究が示唆するものは
同性愛と偏見の問題にとどまらない。

ドラマ『ブラッキッシュ』や『ブラックパンサー』の
好感の持てる黒人の登場人物と架空の友情を結んでも、
同じことが起きる。

イスラム教徒が主役だったり
精神疾患のある登場人物が出てきたりする
テレビドラマにも同じ効果が見られた。

何より心強いのは、偏見の低減を狙った
標準的アプローチであるダイバーシティ教育などには
これほどの成果が見られなかったのに比べ、
ドラマは効果が確実で長続きすると思われることだ。

最新の研究は、2012年にバラク・オバマが大統領として
史上初めて同性婚への支持を表明したのは
架空のゲイたちが道を切り拓いたおかげだ、
と示唆しているだけではない。

『ルーツ』の主人公クンタ・キンテから
テレビドラマ『24』で全軍最高司令官として辣腕をふるった
アフリカ系アメリカ人大統領に至る
「架空の黒人たち」がいなければ、
オバマ大統領自体が存在しなかったかもしれない、
と示唆しているのだ。

ストーリーが世界を滅ぼす

先日、『力の指輪』のポリティカルコレクトネスの行き過ぎについて、
嘆きましたが、ハリウッドやメディアに、
多様性をすりこむという目的があるなら、
致し方ないのかもしれません。

とすると、『力の指輪』のエルフが
黒人でも受け入れたほうがいいのか
いやいや、トールキンの世界とは別物だと思って、
切り離してみるのがよいのか、
悩みどころですね〜〜〜

しかし、ドワーフの女性に髭が生えていないのは、
明らかな誤りです。

女性を男装させるか、
男性俳優が女性として演じるか、
どちらかにしてほしい。

私もテレビドラマ『24』をシーズン3くらいまで
観ましたが、あのドラマのおかげで、
アフリカ系アメリカ人大統領が生まれたとしたら、
ドラマの影響力は本当に大きいですね。

精神疾患ということであれば、
『レインマン』は、ダスティン・ホフマン演じる
サヴァン症候群の兄レイモンドを思い出しました。

確かに、それまでサヴァン症候群を知らなかったし、
あの映画のおかげで、よく知るようになりました。

他にも、時代の流れを反映するというよりも、
時代の流れをつくるために、
隠れた目的をもって、物語を垂れ流すというのは
私たちの世界に当たり前のようにあるのかもしれません。

中国のテレビドラマは、
中国当局の検閲がとても厳しいのですが、
これは物語の力を熟知しているゆえなのでしょう。

数十年前は、演技の間をもたせるために、
たばこを吸うシーンがよくありましたが、
今は見かけません。
(そんなシーンがあったら、大きな抗議がくるでしょう)

調べてみると、他にもありました。

過去、法規制の緩い時代に撮影された映画やドラマ等において、
シートベルト、ヘルメットなどを着用していない状態で
乗り物を運転する場面は、
「作品のオリジナリティを重視する」旨の断りを入れる。

最新映画『トップガン・マーヴェリック』は、
冒頭主人公が、ヘルメットを被らずに、
バイクで疾走するのですが、
アメリカはOKなのかしら? 特別なのかしら?

時々、古い映画をみると、今の常識を再認識することができて、
私たちがいかに常識を書き換えてきたか、
改めて気づくことができますね。

あなたは、どんな映画やテレビドラマの影響で、ものの見方を変えましたか。

20221007 なぜダイバーシティが受け入れられるようになったのか_ストーリーが世界を滅ぼす(2)vol.3554【最幸の人生の贈り方】

6語で人を動かす

■物語の目的

物語は私たちに感情を抱かせるためのものだ。

だが感情は何のためのものだろうか。

感情に訴える体験に
「〔心を〕動かされた(moved)」と言うとき、
私たちは喩えを語っているのではない。

英語のemotion(感情)は「動かす」を意味する
ラテン語emovereを語源としている。

強い感情を覚えるとは、動かされることである。

恐怖は私たちを動かして逃げたり隠れたりさせる。

怒りは私たちを動かして戦わせる。

後悔は私たちを動かして謝罪させ行いを改めさせる。

愛は私たちを動かして守り育ませる。

物語の目的はひとえに感情である。

そして感情は人間の意思決定の
主要要素であることがわかっている。

理性的な論証に効果があるのは、
もっぱらすでに考えを変えた人や
関心がなかった人に対してだ。

しかし一番求められる場面では力を発揮しない。

人を感情の塹壕から理屈によって連れ出そうとしても、
役に立たないどころかむしろ逆効果になりかねない。

強い思い込みを理屈で突破しようとすると、
相手がますます守りを固めてしまう
いわゆる「バックファイア効果」を
引き起こす可能性があるのだ。

■6語で人を動かす

昔々、アーネスト・ヘミングウェイが
友人たちとレストランにいた。

彼は酔った勢いで、自分の筆力をもってすれば
小説1冊分の力をたった6語に込められる、と豪語した。

友人たちは鼻で笑い、
できないほうに一人10ドルずつ賭けるよと言った。

すると文豪はナプキンに六つの単語を無造作に書いて、
テーブルを囲む面々に回覧させた。

各人はナプキンを一目見るや、
渋い顔をして隣に回していった。

そして全員が財布を出し、
ヘミングウェイに10ドルを渡した。

ナプキンに書かれていたのは次の6語だ。

For sale: baby shoes, never worn.
(売ります:ベビー靴、未使用。)

ほとんどの人はこの小さな物語を初めて読んだとき、
一瞬とまどう。

「えっ?どういうこと?」。

そして心の中で合点する。

「ああ……」。

心の中で悲劇が展開する。

これから生まれてくる待望の我が子のために
ベビー靴を買い求める(裕福ではない)夫婦。

赤ちゃんの誕生。

そして死。

希望が砕け散り、悲嘆に変わる。

ヘミングウェイにまつわる名エピソードのご多分に漏れず、
これも残念ながらおそらく事実ではない。

文学界の都市伝説である。

物語にきらびやかな言葉、複雑な思想、
筋書の根本的な独創性などほとんどいらないことを。

そしてストーリーテラーがいかに自信をもって
聴き手に解釈をゆだねることができるかを。

「語らず、示せ」には、直接の明示的なメッセージよりも
間接的で微妙なメッセージのほうが
通常は伝わりやすい、という
ストーリーテラーの集合知が表れている。

物語を完成させるのは私たちである。

例えば私の頭の中で、
広告を出すのは独身女性ではなく夫婦だ。

私の想像する夫婦はあまり若くなく、裕福でもない。

若かったら、まだチャンスがあるからと
ベビー靴をとっておいたのではないだろうか。

そして裕福なら、わざわざ売ろうとなどしないはずだ。

あなたが創った物語は
おそらく私とまったく同じではないだろう。

しかし私と同じく、あなたも
ページに書かれていた情報を脚色しただろう。

ストーリーが世界を滅ぼす

ヘミングウェイの逸話とされている
6語は、私たちに多くのことを語りかけてきますね。

コピーライティングでよく紹介される話を
思い出しました。

道路に座り込んでいる物乞いの盲目の老人。
I’M BLIND. PLEASE HELP.
「目が見えません。助けてください」

通り過ぎていく街の人々。

それを見た、ある女性が、
段ボールに何かを書いて立ち去ります。

すると、次から次に、
街の人たちがコインを置いていきます。

その段ボールに書かれていたのは、
It’s a beautiful day and I CAN’T see it.
「こんなにも素晴らしい日なのに、見ることができないなんて。」

これも心を動かされるメッセージです。

日本には物語を伝えるために
究極的に切り詰めた、素晴らしい文化があって、
それが俳句だと思います。

俳句は、17音で表さないといけないので、
気持ちを書く余地はありません。

代わりに季語と情景を表すことで、
気持ちを伝えます。

静かさを伝えるのに、
「古池や 蛙飛びこむ水の音」
「咳をしても一人」

一方、静かではないけれど、
「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

これだけで、私たちは物語を作ることができて
さらに、伝えてしまうことができるのは、
すごいことではないでしょうか。

人を動かすのに、多くの言葉はいらないんですよね。

そんなことを改めて思いました。

あなたは、今までどんな短い文章に心を動かされましたか。

20221008 6語で人を動かす_ストーリーが世界を滅ぼす(3)vol.3555【最幸の人生の贈り方】

監視資本主義とナラティブの電撃戦による分断

■新しい戦争プロパガンダ「ストーリーネット」

10年近く前、米国防高等研究計画局(DARPA)が
ストーリーテリングに関するカンファレンスを開催した。

「物語、神経科学、実験技術」への新たな投資事業のために、
神経科学者、コンピュータサイエンティスト、心理学者、
人文学界からはストーリーテリングの専門家が
カンファレンスに集まった。

ストーリーネット(STORyNET)」という名前をつけた。

DARPAの行政官たちは、
物語を基にした形態の情報戦に特別な可能性がある、
と具体的に示唆する新しい科学を追っていた。

従来の戦争プロパガンダ(ラジオ放送や
爆撃機の腹から撒かれるリーフレットを想像してほしい)は、
無誘導爆弾に相当するメッセージ手法だ。

相手を選ばない。

汎用性のない画一的なメッセージを万人にぶつける。

それに対してDARPAが構想したのは、
スペキュレイティブ・フィクション
〔現実とは異なる世界を推測して書かれた小説、
現在はこれがSFの呼称に使われることがある〕
に出てくる変幻自在の魔物のように、
物語を消費する個人の一人ひとり異なる心理に合わせて
変容する新しいタイプの物語だった。

DARPAが資金を提供し、
神経科学者のホルヘ・バラサとポール・ザックが
リーダーを務めたある研究チームは、
不治の病を患う幼い少年と
悲嘆に暮れる父親の実話を脚色して、
病気の子供たちを対象とする慈善団体への
寄付の呼び掛けを添えた。

反応から感情があまり動いていないとわかった人々を
除外することによって、
チームは慈善団体に寄付する人を
80%の確率で予測できた。

つまり、彼らは視聴者の心を読んだだけではない。

未来を読むというさらに驚くべきことをした。

だが、ストーリーネット(STORyNET)には
さらに野心的な目標があった。

心および感情の状態と確実に
相関があるとわかっている生理的指標から
コンピュータがあなたの心をマイクロ秒単位で読み取り、
ナラティブの道筋を先導してくれるとしたらどうだろう。

生理的指標のデータは、ウェブに接続したカメラ、
マイクロフォン、テレビその他のデバイスから
集めることが可能であり、
すでに中国では収集されている。

そして、もし視聴者を最大限に楽しませるためではなく、
物語のメッセージに視聴者を最大限に迎合させるために、
コンピュータがそのような使い方をされるとしたらどうだろう
──そのメッセージがある党への協調を呼びかけて
心を高ぶらせるものであったり、売り込み文句であったり、
マイノリティ集団に関する悪意のナラティブであったとしたら?

しかし、物語をベースにした人心操作の
もっと安価で巧妙な方法がすでに出回っている。

■ロシアによるナラティブの電撃戦

2016年5月21日に、
テキサス州ヒューストンにある
イスラム教ダアワセンターに二つのデモ隊が押しかけた。

一つはテキサスの伝統を称え、
銃を持つ権利や移民規制のような政治問題に熱中する
「ハート・オブ・テキサス」という
フェイスブックグループのメンバーたち。

もう一つは「ユナイテッド・ムスリムズ・オブ・アメリカ」
という別のフェイスブックグループが招集したデモ隊で、
彼らは移民の権利や銃規制のような運動を支持していた。

いつもと変わらぬアメリカの日常風景だ。

しかし一つだけ違っていたことがある。

デモ参加者の誰一人、自分が見えない糸に
踊らされている操り人形であることを知らなかった。

ハート・オブ・テキサスも
ユナイテッド・ムスリムズ・オブ・アメリカも、
ロシアのサンクトペテルブルクにある
インターネット・リサーチ・エージェンシー(IRA)社が作った
500近いフェイスブックグループの一部だった。

IRAは2016年のアメリカ大統領選に干渉した
ロシア勢力の黒幕である「トロールファーム〔情報工作組織〕」
として今では有名だ。

どちらのフェイスブックグループも
プロパガンダの大成功例だった。

ハート・オブ・テキサスはメンバー数25万人、
ユナイテッド・ムスリムズ・オブ・アメリカは30万人を誇る。

この二つの傀儡グループの投稿は、
合わせて800万以上の「いいね」がつけられ、
1000万回以上もシェアされた。

IRAは物語工場だ。同社は2013年から、
多くはジャーナリズムかPRの経験があるロシア人を
千人単位で訓練し、物語戦争の突撃隊に仕立て上げてきた。

彼らプロパガンディストたちは社会の断層線を見つけると、
そこにとてつもない力で
楔を打ち込むトレーニングを受けている。

ハート・オブ・テキサスのメンバーは、
地元で生まれ育った善良なテキサス人の暮らしが
外国人の侵入によって脅威にさらされている
という物語を吹き込まれた。

ユナイテッド・ムスリムズ・オブ・アメリカは、
イスラム教徒のアメリカ人としての
アイデンティティに誇りを持たされつつ、
ハート・オブ・テキサスに代表される
超保守層のアメリカ人という
最もわかりやすくて目立つ脅威を訴える物語を聞かされた。

物語の中にはまったくのフェイクニュースもあれば、
すべて真実だがどちらかのコミュニティの憤りに
火をつけるよう周到に選ばれたものもあった。

どちら側も自分を物語の善玉として──追い詰められ、
もはや戦うしかない主人公として見るように
仕向けられた。

フェイスブックはロシア人にとって
史上最高のマインドコントロール装置だった。

適切なデータさえあれば、
フェイスブックが建前として謳っている
共感とつながりの装置ではなく、
敵意と分断を生み出すプロパガンダ装置に
変えることができた。

その短期的な目標は、
共和党に投票する人を増やし
民主党の足を引っ張るナラティブをばらまいて、
選挙を共和党の候補者に有利にすることだった。

長期的な目標は、
同族意識から生まれる憤りに火をつけることによって、
アメリカに長引くダメージを与えることだった。

ロシアによるナラティブの電撃戦は、
史上最も優れていて、破壊力があり、
影響範囲の広いプロパガンダ攻撃だ。

アメリカという大国を弱体化させ分裂させるという、
より大きな目標は確実に達成した。

私たちは国内の争いに気を取られるあまり、
国際舞台で世界を安定させる力としての立場を
維持することができず、
まして今後の攻撃を阻止するほどの反撃もできていない。

ストーリーが世界を滅ぼす

StoryNetは、知らなかったので、調べてみました。

Narrative Networksという名前で、アーカイブされています。
https://www.darpa.mil/program/narrative-networks

DARPA は、物語が人間の認知と行動に
どのように影響するかを理解し、
それらの調査結果を国際安全保障の文脈に適用するために、
物語ネットワーク プログラムを開始しました。

このプログラムは、過激化、暴力的な社会動員、
暴動、および外国人の間でのテロに寄与する要因に対処し、
紛争の予防と解決、効果的なコミュニケーション、
および革新的な PTSD 治療を支援することを目的としています。

Narrative Networks には、研究開発の 3 つの並行トラックがあります。

セキュリティの文脈における物語と
人間の行動への影響を研究するための
定量分析ツールを開発します。

ホルモンや神経伝達物質、報酬処理、
感情認知相互作用に対する物語の
神経生物学的影響を分析します。

社会的および環境的文脈における
物語の影響のモデルとシミュレーションを開発し、
個人やグループへの影響を判断するセンサーを開発し、
教義の修正を提案します。

2011年ごろにSTORyNETが立ち上がったようです。

しかし、監視データが膨大に取得できるようになったので、
リアルタイムで取得しなくてもよくなっている
というのが、現代の主流のようです。

『監視資本主義』については、以前とりあげました。

監視資本主義:人類の未来を賭けた闘い
監視資本主義:人類の未来を賭けた闘いThe Age of Surveillance Capitalism: The Fight for a Human Future at the New Frontier of Powerショシャナ・ズボフ...

今までのところ、今年二番目に多く、17回も
メルマガでとりあげている本です。

必読書といってもよいでしょう。

そして、2016年のアメリカ大統領選挙は、
ケンブリッジ・アナリティカだけでなく、
ロシアのインターネット・リサーチ・エージェンシーも
関与していたのですね。

今になって知りました。

どこで読んだのか忘れてしまいましたが、
選挙=民主主義という隠れ蓑を使って、
「民主主義が行われているのだと」
大衆をだましているというのは、
本当なのかもしれません。

世界や社会を分断させて、誰が得をするのか、
という観点で眺めると、
どちらが正義か悪かという議論から
抜け出て、別の風景が見えてきます。

アメリカが分断すると、誰が得をするのか。
ロシアとウクライナが戦うと、誰が得をするのか。

そんな物語に巻き込まれたいのか、
巻き込まれる必要はないのか、

自分がどんな物語に動かされているのか、
気づくことは大切かなと考えています。

あなたは、どんな世界の物語の登場人物になっていますか。

20221009 監視資本主義とナラティブの電撃戦による分断_ストーリーが世界を滅ぼす(4)vol.3556【最幸の人生の贈り方】

プラトンとカトリック教会とキリスト教

■プラトンの『国家』

プラトンの『国家』が取り組んだ大問題、それは
「どうすれば人間は無分別によって死ぬかわりに
理性によって生きられるか」である。

その答えが想像しうる限り過激なものであるという事実を、
プラトンは隠そうとしない。

まず、プラトンは自由な、つまり才能を
国家のために使うことを拒む詩人だけを街から追い出す。

次に、物語という最も感情をかき立てる様式を禁じ、
残りは哲人王の管轄下に置く。

書棚にあるものの大半は廃棄させる。

それ以外は検閲し、書き換え、
用途を変えなければならない。

主なターゲットは、ギリシャ人にとっての聖書に等しい
ホメロスの叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』だ。

また、プラトンは共産制を
論理的な極限まで追求しようとした。

彼はすべての私有財産を廃止し、
兵士から医師まですべての人間を
同じ経済水準にしようとした。

アテネでは妻は基本的に夫の財産として扱われていたため、
妻も共有され、子供は集団で育てられる
(夫婦の組み合わせも国が介入して優生学上の目的で決める)。

プラトンの社会体制では、
従来の男女の恋愛も親子の情愛も廃止し、
愛情も共産制になる。

彼の理想のヴィジョンを実行するためには、
純粋な論理では動かない愚かすぎる人間たちを
従わせなければならない。

プラトンの美しい都市は物語を一掃するどころか、
レンガ一つひとつに物語が焼き込まれた王国だ。

唯一変わっているところは、
物語が自然発生するのではなく、
任務に合わせて優生学的に産み育てられ
特別に訓練された哲人階級によって
作り出されることである。

プラトンの王は、
プロパガンダ的な物語と神話を独占することによって
支配するのだ。

■カトリック教会

典型的なストーリーテラー王が支配する
カトリック教会を取り上げてみよう。

カトリック教会では王ではなく教皇と呼ばれているが、
彼は宮殿に住み、玉座に座り、豪奢な衣装で身を飾り、
特別な式典では冠をかぶる。

その権力と特権すべての根拠は、
彼がキリスト教の物語の最も深い真実を知っており、
神さながらの絶対的な正しさで語れるという主張にある。

最盛期には、どんな政体よりも教皇領が
「ストーリーテラーが世界を支配する」
を証明するに近い規模になった。

カトリック教会は究極の現実についての物語を語り、
自身の持つ絶大な力を物語に書き、
ヴァチカンの宝物室を通って
天国に続く有料道路を敷いた。

時おりその物語および付随する教会の権力に
疑義を唱える異端者が現れたが、
彼らは生きながら焼かれたり、腹を裂かれたり、
手足を切断されたり、それらを同時にされたりした。

宗教改革以降の数百年間に教会のハードパワーは
確実に衰退していったとはいえ、これほど強力に、
これほど長期にわたって
ストーリーテリングを独占した組織はいまだかつてない。

教皇は今でも世界の13億人のカトリック教徒に
絶大なソフトパワー──絶大ななびかせる力──を
ふるっている。

■キリスト教がローマの多神教を駆逐した理由

「敵を愛しなさい」という善人ぶった倫理観を持つ
キリスト教の物語がいったいなぜ、
ずっと魅力的なセックスと暴力と
メロドラマ風の急展開が満載の、
すでに定着した異教の神話を駆逐したのだろうか。

キリスト教の物語には
二つの明らかな利点が本質的に備わっていた。

第一に、ユダヤ教やギリシャとローマの多神教とは異なり、
キリスト教は伝道宗教である。

ひとたび福音を受け取ったら、
その物語を伝えるのがその人の聖なる義務となる。

福音を広める義務は、チェーンレターに埋め込まれた
プログラムコードに似ている。

「この手紙を6人に送らないと不幸が起きます」。

第二に、キリスト教はユダヤ教と同じく、
きわめて不寛容な宗教だった。

古代ローマの宗教にはたくさんの神がいて、
自分以外の神々にも非常に寛容だった。

キリスト教は天国と地獄という対照的なヴィジョンで、
異教の神々が足元にも及ばないほど
甘いアメと大きなムチを提示した。

キリスト教の売り口上にはすべて、
とてつもない臨場感があった。

キリスト教は今そこにある世界だった。

ギリシャ・ローマ神話の物語は
どちらかと言えば過去形のドラマだった。

それに対して、キリスト教は現在形の宗教だった。

奇跡は今現在起こっている。

そして初期のキリスト教徒たちは
自分たちが歴史のまさにクライマックスを生きていると
主張した。

この世がまもなく終わりを迎え、
徳の高い者は報われ罪びとは地獄に落とされるということは、
非常な切迫感を生んだ。

イエスは今日にも戻ってくるかもしれない。

今この瞬間にも戻ってくるかもしれない。

今すぐ回心しなければ、無限の火の責め苦から
あなたや愛する人を救うのは手遅れかもしれません。

ストーリーが世界を滅ぼす

プラトンの『国家』は通読したことがないのですが、
物語という視点から眺めるのも、
とても興味深いです。

「その国家では、あらゆるお話が──
母親が子供を寝かしつけるときに歌って聞かせる
小さなわらべ歌から、
人間の起源と終末についての壮大な神話まで──
完全に国家の管理下に置かれる。」

なるほど。

物語の強力な力をもって、
国民の思考を支配するのですね。

子供を寝かしつけるときに
どんな物語を語りかけるのか。

「もも太郎」であれば、
この世の中には、私たちの世界を荒らす邪悪な敵がいて
征伐しなければならない。

「ぐりとぐら」であれば、
世の中のものは、みなが満足するほど十分にあり、
異なる種類の動物も含めて、分け与えることができる。

まあ、ちがう世界観ですね。

ギリシャ・ローマの神話とキリスト教神話の違いを、
過去形のドラマと現在形という形で
切り取っているのもおもしろい視点です。

ストーリーの内容としては、
著者も書いているように、
ギリシャ・ローマの神話のほうが、
ずっと魅力的なセックスと暴力と
メロドラマ風の急展開が満載で、
おもしろいです。

広めるには、物語の内容よりも、
ずっと大切なポイントがあるということになります。

キリスト教にも、世界の始まりは語られていますが、
それよりも広めるのに重要なのは、
「審判」が今にも行われるかもしれないという
切迫感なのですね。

これは、今すぐ行動しないといけないという
強迫観念につながります。

そして、チェーンレターと同じ仕組みも
入っていたのですね。

「このような良き知らせを自分だけのものにしておくのは
貪欲で罪深い、罰に値する行為」である。

口コミを促すためのしかけが
入っているわけです。

マーケティングの仕組みが存分に含まれています。

キリストの存命中は、
20名にも満たない弟子しかいないのにも関わらず、
今では13億人。

世界で最も成功したマーケティングであるといえます。

日本人は豊臣秀吉のおかげで、
カトリック教会の支配を免れたわけですが、
これはストーリーに入り込むのではなく、
その世界で行われていることだけを
見たからにほかなりません。

ストーリーの中に入り込んでしまうと、
抜け出すのはなかなか困難です。

そして、残虐な行為を行うことも
厭わなくなります。

私たちは強力な武器をもっているのです。

あなたが人に伝えようと思った物語には、どんな特徴がありますか。

20221010 プラトンとカトリック教会とキリスト教_ストーリーが世界を滅ぼす(5)vol.3557【最幸の人生の贈り方】

陰謀論がなぜ広まるのか

■アメリカで広がっている陰謀論

私たちは陰謀論的な思考のパンデミック状況を生きている。

アメリカ人の半数近くがエリア51
〔宇宙人とUFOを収容しているとされる軍事施設〕を
めぐる陰謀論を信じているか、
噓と断定はできないと考えている。

アメリカ人の半数が何がしかの形の
911陰謀論とケネディ暗殺陰謀論を信じている。

3分の1弱が新世界秩序
〔世界のトップエリートたちが世界を統一し管理社会を作るという説〕や
オバマの出生をめぐる陰謀論
〔オバマは実はアメリカ生まれではなく大統領になる資格がないとする説〕
を信じている。

共和党支持者の3分の1が、
エリートたちが牛耳るディープステイト〔闇の政府〕が存在する
というQアノンの説は「ほぼ正しい」と信じている。

そしてパンデミックといえば、
私が本書の最終稿に手を入れている現在、
COVID‐19陰謀論を支持するアメリカ人が増えている。

40%が死亡率は「意図的に大幅に誇張されていた」と考え、
27%がCOVID‐19のワクチンは
私たちの体に追跡用のチップを埋め込むために
使われるのではないかと懸念している。

■月面着陸の実話と捏造の違い

月面着陸という本当の物語は、
すべてハリウッドのセットであのぎごちない動きを捏造したのだ
という考えよりも大きな驚異を与え、
英雄的で、気持ちを鼓舞してくれる。

しかし、月面着陸の実話はすばらしくはあっても、
受け手の現実世界での行動を活性化しない。

それは月面着陸が歴史に属するからだ。

ところが、NASAがさまざまな卑劣な理由から
着陸を捏造したのだという月面着陸陰謀物語は、
受け手にはるかに強い要求をする。

この陰謀論をはじめ世の中で流行った陰謀論は、
突き詰めればすべて悪の存在を主張している。

陰謀物語は道徳上のホラーストーリーなのだ。

そしてほとんどが現在形で書かれている。

■アメリカで600万人が信じる「地球平面説」

地球平面説の生みの親は
サミュエル・バーリー・ロウボサム(1816~1884)、
各地を転々としながら講演、著述、
医者まがいのことをしていた人物で、
「パララックス」の名で通っている。

地球は本当は新しくて、動かず、
パンケーキのように平らである。

月と太陽はパンケーキ型の地球の上を、
1本の軌道に乗った二つの小さな照明のように
移動している。

諸大陸はパンケーキの中央に飾られた
果物のように集まっている。

縁を巨大な氷の壁がホイップクリームのように取り囲み、
海が虚空に落ちるのを防いでいる。

地球平面説を信じているのはアメリカの成人の2%、
およそ600万人である。

科学的にはまったく破綻しているにもかかわらず、
150年以上も生き永らえている。

それ以上に懸念されるのは、
よくできた弁舌巧みなユーチューブ動画や
インターネット上のミームやポッドキャスト──
ちょっとした数の有名インフルエンサーは言うに及ばず──に
若い人たちがどっぷりと触れているせいで、
ミレニアル世代の3分の1が地球の形状について
確信が持てなくなったと言っていることだ。

この10年で、地球平面説は主に
デジタルメディアをエネルギー源として
大々的に再注目されるようになった。

ユダヤ人、ビルダーバーグ会議の面々、イリュミナティ、
四次元からやってきた爬虫類人の支配者など、
黒幕と思われる対象を挙げればきりがないが、
なぜ彼らはわざわざ大変な手間をかけて
世界が丸いと私たちに信じ込ませようとしているのか。

■陰謀論的世界観

陰謀論的世界観はエゴを満足させる。

この点が、ひとたび陰謀論の世界にはまった人を
現実に引き戻すのが難しい理由の一つだ。

陰謀論のナラティブの中にいる限り、
そこではヒーローでいられる。

自分が間違っていると認めれば、
信じていたものとは違う物語の中に
ずっといたことを認めるはめになる。

物語はモンスターに突撃する自分と仲間を主人公にした
英雄叙事詩ではなかった。

物語は滑稽な悲劇であり、
自分は風車に突撃していただけだったのだ。

■「陰謀物語」という擬似宗教

陰謀物語を疑似宗教に分類する心理学者もいる。

陰謀物語は、その物語を否定するエビデンスが
ことごとく信者の創意あふれる再解釈によって
肯定するエビデンスにされてしまうことで
よく知られる。

宗教と陰謀物語はナラティブ心理の一般的な傾向が
特に鮮明に出ている例である。

私たちが世界を理解するために用いるナラティブには、
あれもこれも説明しようとして拡大したがるという意味で、
貪欲な性質が備わっている。

また、自身の欠陥を否定しがちという意味で
傲慢な性質が備わっている。

そしてナラティブが十分な貪欲さと傲慢さで膨らむと、
支配的ナラティブとなる。

つまり世界の実質的にすべてを説明しようとするのだ。

ストーリーが世界を滅ぼす

私も数多くの陰謀論を耳にし、
ネットを巡回するだけでなく、
本を買って読んだこともあります。

引き込まれますよね。

最近、「地球平面説」を信じているアメリカ人がいると
聞いて、ちょっと驚いたばかりでした。

新型コロナワクチンは、
機械と接続できる人間かどうかの選別に使っている
という説も耳にして、
「ほう????」
と思いました。

人類がすべて、地球平面説を信じていた時代は長いですし、
天道説から地動説にひっくり返ったり、
神が創造したのではなく、生物が進化してきたという説に
置き換わったりした歴史もあるのですから、
陰謀物語に真実が隠れていることもあるのかもしれません。

大切なのは、自分がなぜその物語を信じたいのか、
ということを意識することかと考えます。

誰か黒幕がいると信じることで、
「自分が悪を生み出しているのではない」
「悪をやったとしても、自分はしかたなくやらされたんだ」
と責任転嫁をすることができるかもしれません。

それはそれで、気分は一時的に楽になるかもしれませんが、
同時に、自分の力を「黒幕」という存在に
明け渡していることになります。

それでいいのかしら?

どうせ信じるなら、
「自分には無限の力がある」
「自分が思ったとおりの現実を創造することができる」
という物語のほうが、おもしろいんじゃないかなあと思います。

「自分が思ったとおりの現実を創造することができる」
をベースにすれば、
「黒幕のいる世界」を創造したいのか
「黒幕などいない世界」を創造したいのか
選択することができます。

結局のところ、自分が心動く物語はどれか、
ということにかかってくるのかなと思います。

あなたは、世界のどんな陰謀論を耳にしましたか。

20221011 陰謀論がなぜ広まるのか_ストーリーが世界を滅ぼす(6)vol.3558【最幸の人生の贈り方】

ニュースの消費者とフィクションの消費者の心理学的違い

■世界はたえず良くなり続けている

スティーブン・ピンカーによると、
計測可能なほぼあらゆる面で、
世界はかつてより良くなっており、
たえず良くなり続けているというのだ。

ピンカーのデータは私たちの
「世の中がどんどん悪いほうに向かっている」
という単純な直観が間違いであることを確かに示している。

■ニュースが伝えること

それがほとんどの人にわからないのは、
ジャーナリズムが、良いニュースをキャッチして捨て、
悪いニュースを増幅するフィルターに
現実を通しているからだ。

ニュースビジネスの歴史を見れば、
実はニュースそのものの市場などほとんどなく、
これまでもあったためしはなかったことがわかる。

あるのはドラマの市場だけだ。

「ニュース価値」の主要な評価基準は
真実を表しているかどうかではなく、
ドラマとしてよくできているかどうかである。

そして良いニュースはドラマにならない。

私たちはハッピーエンドを好むが、
最初から最後まで順調に進む物語は
総じて「出来が良くない」。

ニュースが極端にネガティブであることは、
世の中に重大な帰結をもたらしている。

■フィクションの消費者とニュースの消費者の違い

フィクションでは物事がどんどん悪くなって
最後に好転するのが通例だ。

作られた物語はハッピーエンドになる傾向が高いため、
フィクションを大量に消費する人は
ニュースを大量に消費する人に比べ、
自分が「悲惨な世界」ではなく「良い世界」に生きている
という信頼感が強いことが心理学者によってわかっている。

それに対して、ニュースの物語は
悲惨に終始するのが通例だ。

フィクションのハッピーエンドが
おおむね楽観主義を生むとすれば、
ニュースの物語は悲観主義、猜疑心、絶望、
感情の不活性化を生む。

ニュースは私たちに理性的な行動を促すものとされている。

ところが重大な形で私たちを誤った方向に促すのだ。

ニュースの消費者は、
世界が解決不能な混乱状態にあるという
総合的なメッセージを受け取る。

子供たちを家から出すな、
銃を携帯せよ、
市街地から郊外に脱出せよ、と。

■物語の中の運

物語は実生活と同じく、運に左右される。

物語は驚くような偶然や確率的にありえない出来事に
満ちている。

一般に、運は物語の導入部で非常に大きな役割を果たし、
結末に果たす役割はずっと小さい。

たとえばハリー・ポッターがヴォルデモートに勝つのは、
ヴォルデモートがバナナの皮に滑って
頭をかち割るからではない。

「偶然は物語を始めるために必要だが、
結末に持ってくると台無しになりやすい。

ところが逆の使い方をしてしまう作家が多すぎる。

始まりの必然性を読者に納得させようと心を砕くのに、
クライマックスに運やご都合主義を持ち込んでしまう──
クライマックスこそ読者が偶然を最も許容しない場面で
あるにもかかわらず」。

ストーリーが世界を滅ぼす

「今日は電車は通常どおりに運行しています」
「首都高に事故や渋滞はありません。」

うまくいっているときには、
簡単な報道で終わります。

一方、事故や災害があると、
ニュースは繰り返し何度も
同じ映像や文言を繰り返します。

こうやって、問題のみが増幅された情報を
私たちは受け取っています。

ニュースを目にしなければ、
私たちは平和な日常を送れるものだし、
毎日あまり心配せずに、
なんとか暮らせるものです。

今、こうやって生きているように。

さて、物語もハッピーエンドが好まれますが、
言われてみれば、そのとおり
ハッピーな場面はさらりと終わりものですね。

数々のおとぎ話も
「末永く幸せに暮らしましたとさ」
で終わっています。

子供ながらに、
「末永く幸せ」って、どういう状態?
と思ったものですが、
それをとりあげたのが、『シュレック2』でした。

『シュレック』も『シュレック2』も
「末永く幸せに暮らしましたとさ」で
終わるのですが、
『シュレック2』も『シュレック3』も
始まってしまえば、いろいろな事件が起こるわけです。

そして、最後は、
「末永く幸せに暮らしましたとさ」

これが私たちの求めているパターンなわけです。

歴史も人気があるのは、戦国時代です。

私も若い頃は、三国志、徳川家康、太閤記、と
むさぼるように読んだものです。

でも、今、おもしろいと思うのは、
家康が天下をとるために、あるいは天下をとったあとに
江戸の街を作る話
江戸城を作った話や、
江戸に水道をつくった話なのです。

別に悪人を作り出さなくても、
私たちのまわりには課題はいくらでもあるし、
それをどう克服するかでも
十分おもしろい物語はつくれるのではないでしょうか。

勧善懲悪のストーリーからは、
いいかげん、抜け出してよいと思っているのですが、
いかがでしょうか。

あなたは、ニュースとフィクションのどちらをより多く取り入れていますか。

20221012 ニュースの消費者とフィクションの消費者の心理学的違い_ストーリーが世界を滅ぼす(7)vol.3559【最幸の人生の贈り方】

悪魔は私たちだ

■共感は境界線をくっきりさせる

心理学者のポール・ブルームが述べているように、
共感は良いものとは限らない。

「身近な者、自分と似ている者、より魅力的、
あるいは弱くて脅威を感じにくい者に
共感を覚えるほうがはるかにたやすい」。

つまり、集団の外にいる人々よりも
集団の中にいる人々に共感するほうが
ずっとたやすいため、
物語が生み出した共感の主な効果は
「私たち―彼ら」の境界線をぼやかすことではなく、
それをくっきりと際立たせることであるかもしれない。

悪辣きわまりない暴力に手を染める人々は
共感力の低いサイコパスだと私たちは考える。

そういう場合もあるが、必ずしもそうとは限らない。

物語が人々を善悪のカテゴリーに分断する限り、
物語は共感の数だけ非情さを生む。

物語は共感を生むと同時に
共感と正反対のものも生み出す。

悪役を押し付けられた相手の人間性に対して、
道徳的に麻痺した状態を。

■物語が助長する集団内の友好と集団外への敵意

私たちのナラティブ心理は、
先祖が血縁関係、言語、民族、
同じ文化的アイデンティティの物語によって
全員が結ばれていた小さな共同体で
暮らしていた時代に進化した。

先祖が生きていた世界では、
川向こうの人々を悪者扱いすることは
実際に理にかなっていたかもしれない。

彼らは危険な競争相手である可能性があったからだ。

そして部族は自分たちが悪人に囲まれていると想像するほど、
内向きになり結束が固くなる。

ところが多文化・多民族社会になっても、
部族を形成するだけでなく部族間を分断する道具としての
物語の性質は一向に衰えなかった。

そして放っておけば物語は
社会内部の激しい部族対立を引き起こし、
文化的な分裂や内戦という結果まで導きかねない。

■善人でいられる贅沢

十代の頃、父と車でスーパーマーケットに
向かっていたときのことだ。

どういう話の流れだったかは記憶にないが、
道徳についての話題になった。

そのとき父が言ったことがずっと忘れられない。

「私は犯罪者に比べて少しも立派な人間じゃない」
と父は言った。

「今私はパンを買いにプライスチョッパーに行こうとしているが、
もし貧しくて、子供たちがどんどんやせ細っていって、
妻が絶望していたら、私だって店に入ってパンを盗むだろう。

いや、もっと悪いことをするかもしれない。

ドラッグを売ったり人様の家に押し入ったりするかもしれない。

もしそんなことをすれば、犯罪者と──悪人と呼ばれるだろう。

私にはパンを買うお金があるから、良い人間でいられる。

だが私は良い人間なんかじゃない……」。

そこで父は沈黙し、適切な言葉を探した。

「善人でいられる贅沢を手にしているだけだ」。

善良さは人格という生まれつきの資質というより、
生活に不自由のない人はたやすく手にできるが、
そうでない人にとってはずっと高い対価を払って
買わなければならない贅沢品なのだ。

父は中流の身分だったおかげで
盗みを働く誘惑に抵抗できただけでなく、
何不自由ない生活をしていたおかげで
誘惑そのものを覚えなかった。

だがもし人生で配られたカードが悪ければ──
人間の心理的特徴すべての根底にある遺伝子のカードも含め──
父にとって罪を犯す誘惑と、
その誘惑に負ける理由ははるかに大きかっただろう。

■大規模な悪

ナチスの犯罪をはじめ、あなたの頭に思い浮かぶ
大規模な悪の事例の最も顕著な点は、
そのほとんどが多くのストーリーテラーが語ってきたような
平板な悪者のしわざではないことである。

あれらは私たちと同じ立体的な人間がやったことなのだ。

ナチス、南部連合の白人至上主義者、ダホメーの戦士が
したことは私たちから見れば悪だが、
彼らにとっては正常でむしろ立派な行いだった。

彼らが私たちに比べて悪い人間だったわけではない。

今の私たちから見た悪を善であると
誤って定義していた文化の中に生まれる、
という道徳的な不運に当たっただけだ。

私たちがそのような環境に生まれていたら、
私たちもきっと同じ行動を取っていただろう。

いつか私たちの子孫が過去を振り返り、
私たちの中で最も開明的な者をさえ、
私たちが知っている罪
(例えば工場式畜産や抑制のきかない炭素排出型経済)だけでなく、
知っているべきだったと彼らが考える罪で
非難するだろう。

彼らは私たちが互いを悪者にするさま、
私たちの道徳的判断のとんでもない偽善にあきれ返るだろう
と私は言っておく。

これは、私たちが先祖の悪行を名指しで
非難すべきではないとか、
賠償義務を放棄できるという意味ではない。

自分の道徳的な幸運を道徳的な美点と勘違いする
下品な人間であってはならないという意味である。

■悪魔への共感

世の中で不幸な境遇にある人々──
弱い者、貧しい者、鎖につながれた者、
不当な目に遭っている者への共感は推奨される。

しかし歴史上の悪者と加害者に対して、
私たちは共感をもって想像することができない。

奴隷商人、異端審問官、アメリカ大陸征服者、
虐殺者たちに対しては、
神の恩寵がなければ自分がああなっていても
まったくおかしくなかったということを
私たちは認めようとしないだろう。

悪魔は「他者」ではない。

悪魔は私たちだ。

彼は同じ環境に生まれていれば私が──あなたが──
なっていたかもしれない人物なのだ。

ストーリーが世界を滅ぼす

この箇所を読んで、『歎異抄』の
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」
を思い出したので、
改めて、『歎異抄』を読んでみることにしました。

選んだのはこちら。
『歎異抄』阿満利麿 (翻訳)

<原文>
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、
悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。
(後略)

<解説>
この章では、本願念仏の教えの〈正客〉になるのは、
どのような人間であるのかが明かされている。

結論からいえば、それは「悪人」である。

およそ法然の仏教は「悪人成仏」をもって
本旨とする宗教なのである。

そのことが簡潔にのべられている。

だが、現代人が「悪人成仏」を理解することは、
とくに、「悪人」をわがこととして受け止めることは、
容易ではない。

なぜならば、普段の暮らしにおいては、
人々はほとんどが善人であることを自負しているからである。

自分が「悪人」であることを認める人は、
よほどの人物であろう。

自分がなんらかの悪事を犯したとしても、
それは「あの人」のせいであり、
「あの事件」がなければこんなことにはならなかったはずだ
という「いいわけ」がつきまとう。

私は「善人」であり、
たまたま運が悪くて悪事に荷担せざるをえなかっただけだ、
という自己弁解の連続。

あるいは、自らはいつも正しく、善であって、
間違っているのは「あの人」であり、
悪事をおかすのは「この人」だという
「自是他非」の心持ちが普通なのではないか。

こうした善・悪の感覚においては、
「悪人」が「善人」よりも阿弥陀仏の〈正客〉だという主張は、
とても受け容れられるものではない。

しかし、この章で問題となる善・悪は、
道徳の世界でいう善・悪なのではない。

ここでいう「悪人」は「仏」と比較したときの
人間のあり方を指しているのである。

どうしても「仏」になることができない人間を
「悪人」とよんでいるのだ。

阿満利麿氏による解説がとてもわかりやすいです。

自分が善人だと思っているかぎり、
「自是他非」の世界から抜け出すことは難しいです。

私は「善人」であり、
たまたま運が悪くて悪事に荷担せざるをえなかっただけだ、
という自己弁解の連続。

を自分に認めるならば、反対に

私は「悪人」であり、
たまたま運が良くて悪事に荷担する必要がなかった、
と考えることもできるわけです。

どちらがやさしいですかね〜〜〜

私も若いときは、「自分が正しい」と信じ、
正義感をふりまわすことが多かったです。

でも、それは、自分のまわりに対立を増やすだけです。

本当にそれが自分の求めている世界かというと、
そうではないことに気づきました。

そして、「良かれと思ってやったこと」が
必ずしもよい結果だけを生み出すわけではないことに
気づきました。

動機が良ければ、良いということでもないようです。

とすると、自分が何を考えようが、
何を行動しようが、
良いとは限らないわけです。

ましてや、自分が悪とみなした人たちと
同じ境遇にあったときに、
自分が同じことをしないかというと、
わかりません。

同じ環境、同じ資質、同じ物語にあったら、
自分も同じ思考、同じ行動に至る可能性が
ないわけではありません。

単純に、私は「善人でいられる贅沢」を
手にしているだけのことかもしれません。

しかし、それですら、
後世からみたら、地球を持続可能でない環境に導いた極悪人として
断罪される可能性があります。

このまま、善悪の物語に身を置いてもいいのですが、
抜け出してもいいのではないかなあと考えています。

あなたは、悪人について、どのように定義していますか。

20221013 悪魔は私たちだ_ストーリーが世界を滅ぼす(8)vol.3560【最幸の人生の贈り方】

「現実」対「虚構」

■ポスト真実とエビデンス

ポスト真実の世界は、
ほとんどの人が真実が存在すると信じるのを
やめる世界ではない。

ポスト真実の世界とはその逆で、確信が増した世界だ。

どんなにいかれた物語を信じていようと、
本物のエビデンスらしく見える山ほどの情報で
裏付けを得られる世界なのだ。

私たちが暗黒時代から光の中へと這い出せたのは
エビデンスのおかげだ。

科学のおかげだ。

今、私たちは共有された現実の世界を立ち去ろうとしている。

そして真実が最も優れたエビデンスの裏付けではなく、
最も優れた物語──あるいは最も力のあるものが
後ろ盾となっている物語──を基準に決められる、
夢の国に入りかけている。

これは恐ろしい未来図だ。

理性的な啓蒙主義の灯が消え始め、
新たな閉蒙主義の前兆が、
私たちの偏見や迷信への熱中と部族主義的な暴力を好む性向を
復活させようとしている。

■同質の集団での議論は過激化する

法学者キャス・サンスティーンの研究によれば、
無作為に選んだ人々を一つの部屋に集めて
意見の分かれるテーマについて討論させると、
通常は妥協点に向かっていくという。

偏向した信念、態度、行動は、
対立する側の論証によって穏健化する。

しかし一つの部屋に同じ立場の人々を集めて
中絶や銃規制のような意見の分かれるトピックについて討論させると、
彼らは中道の立場に寄っていかない。

同質的な集団が懐疑や反論から隔離されると、
その部屋で最も過激な立場に一気に引っ張られる。

同じ部屋に偏向した人々ばかりがいると、
「自分たちは行き過ぎていないか」という問いかけは
めったに出てこない。

出るのはたいてい「まだ足りないのではないか」という問いだ。

この傾向は非常に強く、しかも予測可能なため、
サンスティーンは「集団分極化の法則」と呼んでいる。

■中国で実現しつつあるプラトンの『国家』

プラトンが『国家』を執筆してから2400年後、
彼の夢を実現する技術的条件がついに整った。

中国共産党のストーリーテラー王は
ハードパワーに次第に頼らなくなるとともに、
国民の服従を獲得する国家のストーリーバースを
形成できるようになるだろう。

あらゆるメディア経路の全面的な統制と結びついた
この国家監視プロジェクトは、
すでにかなり成熟した段階に達している。

テクノロジーを使って人間をコントロールする
新しい統治形態が[中国人によって]開発され、
すでに世界中に輸出されて、
各国の権威主義的政府が国民を恐るべき度合いで
コントロールすることを可能にしている。

今世紀のイデオロギーの戦いは、
中国モデルの権威主義と
西洋の次第にぐらついてきたリベラル民主主義の戦いが
中心になるだろう。

「偉大な国家は国民の結束を必要とする」
と中国学者の劉明福は書いている。

国同士の競争とは主に結束度の競争である。

そして国民の結束に関しては、
中国にすでに大きな優位性がある。

95%が漢民族を自認しており、民族的な均一性がある。

文明国家として5000年の歴史がある。

共産党が与えた共通の神話体系がある。

また、西洋(特にアメリカ)文化の統制しづらい個人主義とは対照的に、
個人より集団を優先する集団主義的な文化的志向性がある。

物語戦争のツールは中国(をはじめとする権威主義国家)によって
西洋に照準を合わせてすでに武器化され、一方で、
彼らがみずから入念に構築したストーリーバースは
グレート・ファイアウォール〔ネット検閲による情報統制〕という
城壁に守られている。

ディープフェイクも中国にとっては脅威ではない。

むしろ、ディープフェイクは
支配者が思い描く通りの虚構の夢の内部に
国民を泳がせておくという
プラトンや全体主義国家の目標の実現に近いように見える。

中国が構築しているマトリックスが
SFの悪夢とならない可能性はある。

映画『マトリックス』で本当に怖かったのは仮想現実ではなく、
ありのままの現実という地獄に送られることだった。

ストーリーが世界を滅ぼす

引用しなかったのですが、
小さな三角と小さな丸と大きな三角が、
動いていくだけの動画から、
人は、それぞれに物語をつくることができるということを
著者が紹介していました。

あるいは、どんなに突飛なイベント3つあるだけでも、
自分を納得させるストーリーをつくることができます。

誰でもいくつかのお気に入りのストーリーの型を
もっていて、それで、世界を自分に説明しようとします。

マスメディアが台頭して、
人々が同じ物語を共有しているとき、
極端から中庸に引き寄せられていきました。

しかし、ソーシャルメディアの台頭によって、
人々は協調するのではなく、
分断するようになっています。

私をより私らしく、あなたをよりあなたらしくすることが、
「私たち」を極端な「私たち」に
「彼ら」を極端な「彼ら」に仕立て上げることに
つながるのです。

本当は土台に大きな共通なものがあるのに、
「私らしく」なろうとした結果、
共通な部分ではなく、差異の部分に
フォーカスしてしまうからです。

大きな樹の葉っぱが、
それぞれ、自分の方が成長が早い、
自分の方が大きい、色がきれい、
「だから、見てみて〜」、
日当たりがよい、日当たりが悪い、
と言い合っているのを見たとしたら、
きっと「ばかだなあ」と思うに違いありません。

しかし、まあ、それと同じようなことを
しているということですね。

それぞれを称賛しあっているならともかく、
そうこうしているうちに、
「自分は違う」「彼らはおかしい」
となると、分断につながります。

なんともまあ、おかしな方向に向かうことになります。

物語の世界から引き戻すものの一つが科学ですが、
科学もすでに偏っており、
信じる結果を引き出すための実験をしているなら、
役に立ちません。

となると、、、

いろいろな物語の世界をジャンプしてみるのが
いいのではないかと、
あえていろいろなストーリーに没頭してみているのですが、
どうなんでしょう。

ソーシャルメディアに没頭するよりも、
ニュースを眺めているよりも
楽しいことは楽しいですが。

ニュースの消費者よりも
フィクションの消費者のほうが、
楽観主義を生むというなら、
これはこれで、一つの方法かと思います。

あなたは、「まだ足りないのではないか」という質問を投げかけていませんか。

20221014 「現実」対「虚構」_ストーリーが世界を滅ぼす(9)vol.3561【最幸の人生の贈り方】

この記事は、メルマガ記事から一部抜粋し、構成しています。

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