2.坤為地(こんいち)䷁

易経
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坤為地(こんいち) 地の包容性、臣下の道

序卦伝

有天地然後萬物生焉。
天地ありて然る後万物生ず。
てんちありて、しかるのちばんぶつしょうず。

天と地、すなわち乾と坤があって、その後初めて天と地の間に万物が生じる。

坤元亨。利牝馬之貞。君子有攸往。先迷後得主。利西南得朋東北喪朋。安貞吉。

坤元亨。利牝馬之貞。君子有攸往。先迷後得主。利西南得朋東北喪朋。安貞吉。
坤は、元いに亨る。牝馬の貞に利ろし。君子往く攸有るに、先ずれば迷い、後るれば主を得。西南に朋を得、東北には朋を喪うに利ろし。貞に安んずれば吉。
こんは、おおいにとおる。ひんばのていによろし。くんしゆくところあるに、さきんずればまよい、おくるればしゅをえ。せいなんにともをえ、とうほくにはともをうしなうによろし。ていにやすんずればきち。

願いごとは大いに通る。ただし、雌馬のようにおとなしく持続力がある場合にのみ利益がある。君子がとこかに出かけようとする。人の先に立とうとすれば迷うことがあろう。人の後ろについて行くようにすれば、当を得る。西南に行けば友が得られる。反対に東北に行けば仲間を失うが、かえってよい。安らかで正しく、吉が得られる。

「元亨利、牝馬の貞」元は物事が始まる。亨は元で始まった物事がだんだんに成長して盛んになる。利は成長して盛んになった物事が引きしまって各々そのよろしきところ、その便利とするところを得るのである。こちらから他に働きかけることなく、向こうの働きかけて来るのに従順に従い、そして正しくかつ固いのである。絶対他力本願が坤の卦の徳である。
「君子有攸往。先迷。後得主」君子たるものがどこへか行こうとするときに、自分が先に立って行くときは、道に迷うて、とんでもないところへ行くことになる。人に後れて人のあとについて行くときは、主人とするところのものすなわち先達を得て、道に迷うことがなく、無事に目的地に達せられるのである。
「利西南得朋。東北喪朋。」西南におるときは自分の同類の仲間を得、後に東北にゆくときは自分の同類の仲間を失ってしまうがよろしい。若い時には、自分のおるところの陰の位置すなわち西南にあって、自分の同類の仲間の人たちと一緒になって、勉強修養するがよろしい。そうして、後に学問修養が成就して東北の方すなわち艮の山の高いところに登り、すなわちあるいは朝廷に仕えるなり、なんらかの高い位地に登ったときは、以前の自分の仲間を忘れて、公平に賢人を賢人とし、尊敬すべき人を尊敬し、用いるべき人を用いるようにしなければならぬのであり、そうするがよろしい。学閥をつくったり、党閥をつくったり、藩閥をつくったりせず、至極公平でなければならぬ。
「安貞吉。」貞すなわち正しくしてかつ固き徳におちついて動かず、正しい道を堅く操り守るときは吉である。

彖曰、至哉坤元、萬物資生。乃順承天。坤厚載物、德合无疆。含弘光大、品物咸亨。牝馬地類、行地无疆。柔順利貞、君子攸行。先迷失道、後順得常。西南得朋、乃與類行。東北喪朋、乃終有慶。安貞之吉、應地无疆。
彖に曰く、至れるかな坤元。万物資りて生ず。乃ち天に順承す。坤は厚く物を載せ、徳は无疆に合す。含弘光大、品物咸く亨る。牝馬は地の類、地を行くこと无疆なり。柔順利貞、君子の行う攸なり。先んずれば迷いて道を失い、後るれば順にして常を得。西南に朋を得、乃ち類と行くなり。東北に朋を喪う、乃ち終に慶び有るなり。安貞の吉は、地の无疆なるに応ず。
たんにいわく、いたれるかなこんげん。ばんぶつとりてしょうず。すなわちてんにじゅんしょうす。こんはあつくものをのせ、とくはむきょうにがっす。がんこうこうだい、ひんぶつことごとくとおる。ひんばはちのるい、ちをゆくことむきょうなり。じゅんじゅんりてい、くんしのおこなうところなり。さきんずればまよいてみちをうしない、おくるればじゅんにしてつねをう。せいなんにともをう、すなわちるいとゆくなり。とうほくにともをうしなう、すなわちついによろこびあるなり。あんていのきちは、ちのむきょうなるにおうず。

彖伝によると、大地の根源である坤の徳は最高である。万物はこの坤の卦を元として生じた。しかしながら、坤の卦は乾に当たる天の手柄を素直に受け継ぐものである。坤は大地であって分厚く、あらゆるものをその上に乗せている。坤の徳は、乾の限りない徳に合致する。この卦は包容力があり、広く、光り輝き、厚さがある。この卦によって、いろいろな種類のものがことごとくその生を遂げる。牝の馬は大地の徳と似たものである。おとなしいけれども、どこまでも大地をとことこ歩く。このように従順であり、しかも万物を利して正しいというのは、君子の行動に似ている。人の先に立って行動しようとすれば、迷って道を失う。人の後ろについて行くのは、坤の卦としては順当であり、その常道に適っている。「西南に行けば友を得る」というのは、つまり西南は陰の方角なので、陰の卦が陰の方に行くことになり、同類と一緒にいくことである。「東北に行けば友を失う」とは、東北に行くことは、自分の同類と離れることではあるけれども、種類の違う人と結びつくことによって、最後には喜びがある。そうして得られる安らかさ正しさの吉なる結果は、大地の無限のはたらきに対応するものである。

彖伝によると、坤の元の徳は至極のところに到達しておる。万物は皆坤の元の徳によって始めて形を生ずる。それは坤が極めて従順にして天の徳をすらすらと十分に承け入れることによって、この偉大なる力ができるのである。坤すなわち地の徳は極めて厚くしてあらゆる物を皆その上に載せておる。その徳の広大なることは、乾すなわち天の限りなき盛大なる徳と一体になっておる。そうして坤はあらゆる物を包容し、包容することが極めて広く、その徳は光り輝き、その光は広大にして、至らぬ隈もないのであり、これによって、いろいろさまざまの物が皆各々十分に伸びて盛んに成長するのである。坤の卦の徳は、万物をして各々その利を得しめ、そうして牝馬の貞、従順にして正しく堅き道に安んぜしめるのである。坤の道を学ぶところの君子はこれに則りて、従順にして利しくかつ正しき道を行うのである。坤の君子が人に先立って事を行うときは、必ず迷うて自分の道を失うことになり、すなわち坤の道を失うことになるのであって、後にはどうしたらよいかがわからなくなり、途方にくれるのである。坤が乾に後れ、乾に従って事を行うときは、従順であって、坤の常の道を得るのである。坤の道を体得したる君子が、西南の朋を得、自分が本来あるところの位地におるときは、自分の仲間を得ておるのは、これは自分の仲間とともに事を行うのであり、これはよろし。けれども、東北に朋を喪い、一旦、自分の従来の位地を離れて、東北の陽の卦のおるところに行ったならば、昔の自分の仲間を忘れるのは、初めには寂しいように感じるかも知れぬけれども、ついに大なる喜ぶべきことがあるのである。正しくして堅固なる徳におちついて安住しておるところの吉は広大なるものであり、その吉の広大なることは、地が限りなく広大なるに相応するほどである。

象伝

象曰、地勢坤。君子以厚德載物。
象に曰く、地勢は坤なり。君子以て厚徳もて物を戴す。
しょうにいわく、ちせいはこんなり。くんしもってこうとくもてものをのす。

大地の態勢は順であって厚い。至高の徳ある人はこの卦にのっとって、その厚い徳により、あらゆるものを受け入れる。

象伝によると、地の形勢は、坤の卦の象である。地の形勢は、地の上に地があり、その上にまた地があり、幾重にも重なって、極めて厚いのであり、天下のあらゆる万物を載せている。君子は、この地の勢を見、坤の徳を学んで、道徳を厚くし、手厚いが上にも手厚くして、万物を載せ、万民を包容するのである。

文言伝 下

文言曰、坤至柔而動也剛。至静而德方。後得主而有常。含萬物而化光。坤道其順乎。承天而時行。
文言に曰く、坤は至柔にして、動くや剛なり。至静にして、徳方なり。後るれば主を得て常あり。万物を含んで、化光いなり。坤道それ順なるか。天に承けて時に行う。
ぶんげんにいわく、こんはしじゅうにして、うごくやごうなり。しせいにして、とくほうなり。おくるればしゅをえてつねあり。ばんぶつをふくんで、かおおいなり。こんどうそれじゅんなるか。てんにうけてときにおこなう。

文言によると、坤の道は至って柔らかいが、その動きは力強い。至って静かであるが、その物を生むはたらきには整然とした法則性がある。陰は陽に従うものであるから、人の後についてゆけば、陽剛なる主人を得る。それが陰の常道に沿うことである。坤は万物を包含し、その造化の力は広大である。坤は、陽剛なる主人、天の意図をうけて、その時を失せずに生々の作用を行う。坤の道はなんと柔順なものではないか。

文言によると、坤の卦は、至極の柔であり、動くときは剛である。自分の意志というものは少しもなく、すべて乾の卦の力を受けて、すべて乾の卦の動くままに、少しも自分の考えを混えず、乾の卦の意志のままに動くのであって、乾の卦の剛の徳が、そのまま坤の卦の徳となるのである。坤の卦は、至極静寂である。乾の卦の陽剛の徳が東西南北四方八方に行きわたって活動するのを受け入れ、それに従って活動して万物を生ずるのであり、その徳は方正である。乾に後れて、すべて乾に従って動くときは、その主人とするところのものすなわち乾の力を得て、坤の常の道を失わないのである。すべて乾の卦の徳を受けて動くので、天下のあらゆる万物を包容することを得て、坤の卦の徳化は極めて広大である。坤の卦の道はなんと柔順であるか。坤の卦の道は、柔順にして、すべて天の徳をうけいれて、動くべき時にしたがって事を行うのである。

初六。履霜。堅氷至。

初六。履霜。堅氷至。
初六。霜を履んで、堅氷に至る。
しょりく。しもをふんで、けんぴょうにいたる。

霜を踏むようになって、だんだんと寒くなり、堅い氷がやってくるであろう。

象伝

象曰、履霜(堅氷)、陰始凝也。馴致其道、至堅氷也。
象に曰く、霜を履むは、陰始めて凝るなり。その道を馴致して、堅氷に至るなり。
しょうにいわく、しもをふむは、いんはじめてこるなり。そのみちをじゅんちして、けんぴょうにいたるなり。

陰気が初めて凝った段階である。陰の動きをそのままに放置して馴れ馴れしくさせて、堅い氷にまでなる。

陰が始めて凝って霜となって目に見えるようになった。その道をだんだんに進んで行くといは、終いには陰のきわめて盛んなる堅い氷に至るのである。早く警戒しなければならぬ。

文言伝 下

積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃。臣弑其君、子弑其父。非一朝一夕之故。其所由來者漸矣。由辨之不早辨也。易曰、履霜堅氷至。蓋言順也。
善を積むの家には、必ず余慶あり。不善を積むの家には、必ず余殃あり。臣その君を弑し、子その父を弑する、一朝一夕の故にあらず。その由って来るところのもの漸なり。これを弁えることの早く弁えざるに由るなり。易に曰く、霜を履んで堅氷至る、蓋し順を言うなり。
ぜんをつむのいえには、かならずよけいあり。ふぜんをつむのいえには、かならずよおうあり。しんそのきみをしいし、こそのちちをしいする、いっちょういっせきのこにあらず。そのよってきたるところのものぜんなり、これをわきまえることのはやくわきまえざるによるなり。えきにいわく、しもをふんでけんぴょういたる、けだしじゅんをいうなり。

初六の解釈。善を積んだ家ではかならず福が子孫に及ぶ。不善を積んだ家ではかならず災いが子孫に及ぶ。臣下であってその君を弑し、子がその父を弑するような大逆の罪でも、一朝一夕に起こったことではない。その由来するところは、長い間にだんだんと進行していたものである。そうなったのは、事の小さいうちに早く処理しなかったことによる。易に、霜を履んで堅氷至るというのは、おそらく小悪もそのままにしておけば大悪になることをいうのであろう。

世の中のことは、すべて漸次に積もり積もって成るものである。よい行いを積み重ねておる家には、当人は幸福を受けるのみならず、そのあまりの幸福は、必ず子孫にまでも及ぶものである。よくない行いを積み重ねておる家には、当人が災いを受けるのみならず、その残りの禍は必ず子孫にまでも及ぶのである。臣がその君を弑したり、子がその父を弑したりするのは、大逆不道の行いであるが、これらの行いは一朝一夕に起こったものではない。そのよって起こるところの来歴は、漸次にだんだんにさような大逆不道の行いが出るようになったのである。君たるもの、または父たるものが早くこれを弁えて早くこれを適当に処置しなかったためである。大逆不道の臣や子が悪いばかりではなく、君たるものまたは父たるものにも、大いなる責任があるのである。易に「霜を履んで堅氷至る」とあるのは、微弱なる陰から、漸次に、だんだんに進んで、堅氷至るという強くして盛んなる陰になるのである。

六二。直方大。不習无不利。 

六二。直方大。不習无不利。 
六二。直・方・大。習わずして利ろしからざる无し。
りくじ。ちょく・ほう・だい。ならわずしてよろしからざるなし。

真っ直ぐであり、正方形であり、大きい。学習を待たずして、自然のままであらゆる物に利益があるであろう。

坤の卦の主爻である。直は真直ぐに進むことである。乾の卦の元気を十分に受け入れて、乾の卦の元気の動くままに、坤の卦自身はいささかも私の意志を加えず、乾の卦に順って真直ぐにどこまでも進んで行くのである。乾の卦の元気が東西南北に向かって盛んに暢びて行くに従って、真直ぐに進んで行くので、そこで方形になる。方という徳ができるのである。乾の卦の元気の徳はこれまでが限りという限りのない大きな徳である。坤の卦の大の徳は、乾の卦の大の徳に順って、そのままに進んで行くところから、出てくる。直と方と大との三つの徳を備えておるので、格別にいろいろな学問をし、練習をしなくても、いかなる場合にもうまく行かないことはない。

象伝

象曰、六二之動、直以方也。不習无不利、地道光也。
象に曰く、六二の動きは、直以て方なり。習わざれども利あらざるなきは、地道光いなればなり。
しょうにいわく、りくじの動きは、ちょくもってほうなり。ならわざれどもりあらざるなきは、ちみちおおいなればなり。

六二の動きは、真っ直ぐであり正方形である。──動き方に法則性がある。「学習を待たずしてあらゆる物に利益を与えることができる」というのは、大地の道の大きさ・輝かしさである。

心構えの真直ぐなるところから、方正なる行いが出てくるのである。格別、学問をせず、いろいろな練習をせずとも、何事に当たってもよろしきを得られるのは、地の道すなわち坤の道が広大なるからである。

文言伝 下

直其正也。方其義也。君子敬以直内、義以方外。敬義立而德不孤。直方大、不習无不利、則不疑其所行也。
直はその正なり。方はその義なり。君子は敬以て内を直くし、義以て外を方にす。敬義立てば徳孤ならず。直方大なり、習わざれども利ろしからざるなしとは、その行うところを疑わざるなり。
ちょくはそのせいなり。ほうはそのぎなり。くんしはけいもってうちをなおくし、ぎもってそとをほうにす。けいぎたてばとくこならず。ちょくほうだいなり、ならわざれどもよろしからざるなしとは、そのおこなうところをうたがわざるなり。

六二の解釈。直とはその正しさをいう。方とはその義(けじめ)をいう。君子は敬(つつしみ)でもって内心を正直にし、義でもって外形を方正にする。敬と義が成立すれば、その人の徳は孤立的ではありえない。広大なることを望まずとも広大となる。習わざれども利ろしからざるなしというのは、自分の行動に疑惑をもつことがないから、学習の必要もないということである。

心が正しく真直なことが正であり、それが外にあらわれ、行いにあらわれ、事にあらわれて、よろしきにかなっておることが義である。直と正とは心についていい、方と義とは、それが事にあらわれ行いにあらわれておるについていう。君子は、心の内に深くつつしんで、それによって、内すなわち自分の心を真直ぐにし、心が横道にそれることなく、邪にして曲がった念が心の内に萌すことのないようにし、正義にしてよろしきに叶うところの行いをもって、外にあらわれておる容貌態度動作行為を方正にする。内には敬の徳があって深くつつしみ、外には義の行いがあって、なすところのこと皆よろしきに叶うときは、徳は一つだけ孤立することなく、一方にのみ偏ることなく、徳の上にまた別の徳が加わり、盛大なる徳を成就するのである。「直方大なり、習わざれども利ろしからざるなし」とあるのは、自分の行うところにおいて何の疑うところもないのである。

六三。含章可貞。或従王事。无成有終。 

六三。含章可貞。或従王事。无成有終。 
六三。章を含みて貞にす可し。或いは王事に従うも、成すこと无くして終り有り。
りくさん。しょうをふくみてていにすべし。あるいはおうじにしたがうも、なすことなくしておわりあり。

あやを含んでいる。正しくあるべきである。時には王様の仕事に従事する。しかし、功績があがっても自分の功績とはしない。ただひたすらその仕事を終えることを心がける。

六三は、大夫の位であり、事務官の上級なるものであるが、たとえ我が身の中に才能道徳を多く蓄えておるとてお、それを内に含んで外にあらわさず、才能道徳あることを誇ることなく、それをひけらかすことなく、そうして正しい道を堅固に守るべきである。時として王事に従い、天子が政治をなさるに従って、それを補佐することがあるけれども、自分で事を成すことなく、ひたすら天子のご命令に従って、その事を首尾よく終わり、首尾よく成就するよう務むべきである。

象伝

象曰、含章可貞、以時発也。或従王事、知光大也。
象に曰く、章を含む、貞にすべし、時を以て発するなり。或いは王事に従う、知光大なり。
しょうにいわく、しょうをふくむ、ていにすべし、ときをもってはっするなり。あるいはおうじにしたがう、ちこうだいなり。

「章を含む、貞にすべし」とあるのは、時に応じて、内に含んだあやを表に出さなければならなければならないこともあるということである。時として王様の仕事に従うが、その功績を自分の物とはしないというのは、この家来の知恵が輝くばかりに大きいからである。

自分の身には美しい才能道徳があっても、それを外にあらわすことなく、正しく堅固にそれを守っておるべきであるというのは、いつまでも包み隠してしまいに何事をもなさぬというのではなく、それを出して用いるべき時が来たならば、それを外にはっし、外にあらわして大いに用いるのである。時としては天子の事に従って天子のご政治を補佐することがあるのは、元来、自分の心の中に貯えておるところの智慧が光大であるからである。

文言伝 下

陰雖有美、含之以従王事、弗敢成也。地道也、妻道也、臣道也。地道无成而代有終也
陰は美ありといえども、これを含んで以て王事に従い、あえて成さざるなり。地の道なり。妻の道なり。臣の道なり。地の道は成すことなくして、代わって終うることあり。
いんはびありといえども、これをふくんでもっておうじにしたがい、あえてなさざるなり。ちのみちなり。つまのみちなり。しんのみちなり。ちのみちはなすことなくして、かわっておうることあり。

六三の解釈。陰の道として、わが身に美点があっても、それを含みかくして、王者の仕事に従事する。十分てがらをたてる力はあるが、縁の下の力持ちに甘んじて、進んで立役者になろうとはしない。これが地の道であり、妻の道であり、臣の道である。地の道というものは、自分の功績を誇ることはない。天に代わって生育のしごとをなしとげ、功は天に譲っている。

陰はたとえ内に美しい才能道徳を備えておるとしても、決してそれを外にあらわすことなく、内に含んで外から見えないようにしておるべきである。そうして時として王事に従い、天子のご政治を補佐することがあるけれども、あえて自分で事をなすことなく、すべて天子のご命令に従うべきである。これが坤の卦の道である。すなわち家の道である。妻の道である。臣の道である。地の道は自ら主唱者となって事をなすことなく、天の春夏秋冬の運行に従って、天に代わって万物の生成化育を完成するのである。

六四。括嚢。无咎无誉。

六四。括嚢。无咎无誉。
六四。嚢を括る。咎无く誉れ无し。
りくし。のうをくくる。とがなくほまれなし。

袋の口を括ったように、極めて謹慎にしてその才能をあらわさないのであり、咎もなく誉れもない。

象伝

象曰、括嚢、无咎、愼不害也。
象に曰く、嚢を括る、咎なし、慎めば害あらざるなり。
しょうにいわく、ふくろをくくる、とがなし、つつしめばがいあらざるなり。

「袋の口を括ったように何も言わなければ、咎がない」という意味は、かように極めて謹慎にして身を処するときは、害を受けることはないのである。

文言伝 下

天地變化、草木蕃。天地閉、賢人隠。易曰、括嚢、无咎无譽、蓋言謹也。
天地変化して、草木蕃し。天地閉がって、賢人隠る。易に曰く、嚢を括る、咎もなく誉れもなしとは、蓋し謹を言うなり。
てんちへんかして、そうもくしげし。てんちふさがって、けんじんかくる。えきにいわく、ふくろをくくる、とがもなくほまれもなしとは、けだしきんをいうなり。

六四の解釈。すべて天地の気は相交わることで変化し、その結果として草木などが繁茂する。天地の気が隔絶して通じないときは、万物伸びることがない。同様に君臣の道が隔絶するときは、賢人は野に隠れて出ない。易の、嚢の口を括ったように、韜晦(とうかい)していれば、名誉もないが咎もない。おそらく身を謹しめということを述べたものであろう。

天が運行して地がそれによって化するのである。天の気と地の気とが相交わり相感じて、陰陽和合するときは、万物発生し、草木も繁茂するのである。これに反して、天地閉じ、天の気は閉じ塞がり、地の気も閉じ塞がり、天地の気が相交わり相感じないときは、万物は発生せず、草木は生育しない。さような時代には、賢人は遠く隠遁して世にあらわれないのである。易の「嚢を括る、咎もなく誉れもなし」とは、けだし謹慎にしてその身を全くすることをいうのである。

六五。黄裳元吉。

六五。黄裳元吉。
六五。黄裳、元吉。
りくご。こうしょう、げんきち。

中庸を得てへりくだっていれば、大いに吉である。

象伝

象曰、黄裳元吉、文在中也。
象に曰く、黄裳元吉なるは、文、中にあるなり。
しょうにいわく、こうしょうげんきちなるは、ぶん、ちゅうにあるなり。

「黄裳元吉」とあるのは、柔和にして従順なるうるわしい文徳があり、中央の位にあって中庸の徳を備えておるからである。

文言伝 下

君子黄中通理、正位居體。美在其中、而暢於四支、發於事業。美之至也。
君子は黄中にして理に通じ、正位にして体に居る。美その中に在って、四支に暢べ、事業に発す。美の至りなり。
くんしはこうちゅうにしてりにつうじ、せいいにしてたいにおる。びそのなかにあって、ししにのべ、じぎょうにはっす。びのいたりなり。

君子はあたかも黄色が四方の色、青赤白黒の中央にいながら、四方の色と脈絡を通じ、整然たる条理を保っているのと同様に、身の内に中の徳をそなえることにより、その徳おのずと周囲に貫通して条理が乱れない。しかも君子は五という尊い位に居りながら、裳が下半身につけられるように、下にへりくだって居る。美徳が内にあって、四肢にひろがり、事業となって外にあらわれる。これこそ美の至りである。

坤の六五の君子は、柔順にして中庸の徳を持っており、天下の物事の道理に通暁しており、そうして陰陽君臣上下の位を正しくして、自分は坤であり陰であるから、坤の卦すなわち陰なるもののおるところの本体を守って失わないのである。かような美しい徳が心のうちに充実しておるので、それが自然に外にあらわれて、からだ全体に充満し、手足の先にまで行きわたり、一挙一動に美しい徳があらわれ、それがまた自然に事業に発しあらわれ、なすところの事業は、すべて立派な成績を挙げるのである。これが善美なることの至極なるものである。

上六。龍戦干野。其血玄黄。

上六。龍戦干野。其血玄黄。
上六。龍、野に戦う。其の血は玄黄。
じょうりく。りゅう、やにたたかう。そのちはげんおう。

龍が野原で戦い、両方とも傷ついて、片一方は黒い血を、もう一方は黄色い血を流す。

象伝

象曰、龍野于戰、其道窮也。
象に曰く、竜野に戦うは、その道窮まればなり。
しょうにいわく、りゅうやにたたかうは、そのみちきわまればなり。

「龍が野外で戦い合う」というのは、陰の道が究極にまで至ったからである。

文言伝 下

陰疑於陽必戰。為其嫌於陽也、故稱龍焉。猶未離其類也、故稱血焉。夫玄黄者、天地之雜也。天玄而地黄。
陰、陽に疑わるれば必ず戦う。その陽なきに嫌わしきために、故に龍と称す。なおいまだその類を離れず、故に地と称す。それ玄黄は、天地の雑なり。天は玄にして地は黄なり。
いん、ようにうたがわるればかならずたたかう。そのようなきにうたがわしきがために、ゆえにりゅうとしょうす。なおいまだそのたぐいをはなれず、ゆえにちとしょうす。それげんこうは、てんちのざつなり。てんはげんにしてちはおうなり。

上六は、陰の極盛、陽にまがう大きさになってしまった。ここにおいてか陰と陽と相い戦わざるをえない。坤卦は純陰の時であるが、このときも陽はかげにひそんで、なくなってはいない。陽がまったくなくなったかに思われるといけないから、陽の象徴、龍の名を挙げた。陰が陽にまがうばかり、盛んになってはいるが、やはり陰の類を離れてはいない。だから血という。血は陰に属する。一体、玄黄という色は天と地のまじった色である。天の色は玄、地の色は黄である。

上六の陰は、その勢いが極めて盛んであって、陽かと疑われるほどになっておる。本当の竜ではない。実はなおその類すなわち陰の仲間を離れることができないのである。ゆえに血と称してある。血は陰の系統のものである。その戦のために流した血の色は玄黄である。玄黄というのは、天の色と地の色が雑ったのである。天の色は玄色であり、地の色は黄色であるので、玄黄の二字をもって、天も地もともに傷ついたことをあらわしておるのである。

用六。利永貞。

用六。利永貞。
用六。永貞に利ろし。
ようりく。えいていによろし。

永久に正しさを守るべきである。その場合にのみ利益がある。

象伝

象曰、用六永貞、以大終也。
象に曰く、用六の永貞は、大を以て終わるなり。
しょうにいわく、ようりくのえいていは、だいをもっておわるなり。

「用六。永貞に利ろし。」とあるのは、ついには、限りなく偉大なる徳を得られるのである。

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