9.風天小畜(ふうてんしょうちく) ䷈

易経
この記事は約11分で読めます。

風天小畜(ふうてんしょうちく) 小さな停止、小さな蓄積

序卦伝

比必有所畜。故受之以小畜。
比しめば必ず畜うるところあり。故にこれを受くるに小畜を以てす。
したしめばかならずたくわうるところあり。ゆえにこれをうくるにしょうちくをもってす。

親しみ合えば、必ず集まりができる。だから比の卦の後に小畜という卦を置く。

小畜亨。密雲不雨。自我西郊。 

小畜亨。密雲不雨。自我西郊。 
小畜は、亨る。密雲あれど雨ふらず、我が西郊よりす。
しょうちくは、とおる。みつうんあれどあめふらず、わがせいこうよりす。

願いごとは通るであろう。私の西の郊外から黒雲が湧き起こるけれども、雨にはならない。

内は剛健、外は巽順の徳によって、小畜は亨るのである。空一面に雲が行き渡っておるけれども、まだ雨が降らない。二・三・四の三爻で兌の卦ができておる。兌の卦は沢である。沢の水の気が下の乾の中ほどから横たわっておる。これが雲である。(他の説もあり)西は兌の卦の方角である。郊は乾の卦の象である。そうして上に巽の卦の風がある。我が西郊より雲が盛んに湧き起こっておる。

畜の字は「とどめる」と「たくわえる」と、二つの意味がある。あるものをとどめておくことは、あるものを貯えておくことである。あるものを貯えておくことは、あるものをとどめておくことである。小畜というのは、小さいものがある他の大きいものを止めておくことである。大きいものを十分に止めることはできず、少しく止めるに過ぎないのである。
小さいものが大きいものを止めるということは、陰が陽を止めることである。臣下たるものが君主を止めること、妻が夫を止めること、子が親を止めること、卑しい身分のものが高い位地のものを止めることである。小さい堤防を築いて大きい川の流れの氾濫を防ぐことも、小畜の卦の領分である。しかし大洪水には決壊することを免れないのである。

小畜の卦は、下に乾の卦があり、上に巽の卦がある。卦は純陽にして、極めて盛んなる大きい勢力のものである。巽は陰の卦であり、風であり、長女である。下にある純陽の乾の卦が上へ進もうとするのを、上の陰なる巽の卦が押さえて止めようとするのである。臣下が柔和巽順にして、君の心を和らげて、君の行いを止めるのである。そこで、臣下の志が亨るのである。

彖曰、小畜柔得位而上下應之、曰小畜。健而巽、剛中而志行。乃亨。密雲不雨、尚往也。自我西郊、施未行也。
彖に曰く、小畜は柔位を得て、上下之に応ずるを、小畜と曰う。健にして巽、剛中にして志行わる。乃ち亨る。「密雲あれど雨ふらず」とは、尚お往くなり。「我が西郊よりす」とは、施し未だ行われざるなり。
たんにいわく、しょうちくはじゅうくらいをえて、じょうげこれにおうずるをしょうちくという。けんにしてそん、ごうちゅうにしてこころざしおこなわる。すなわちとおる。「みつうんあれどあめふらず」とは、なおゆくなり。「わがせいこうよりす」とは、ほどこしいまだおこなわれざるなり。

彖伝によると、小畜という卦は、六四という陰の柔らかいものがしかるべき地位を得て、上下の陽爻がそれの応じる。この形を小畜と言う。下半分が健やかの意味で、上半分が従うという意味である。二と五について言えば、強いものが中庸を得ていて、その志が実行に移される。だから願いごとが通る。「黒雲が湧き起こるけれども、雨にはならない。」というのは、まだ進もうとするのである。「私の西の郊外からする」というのは、手柄が完全には行われないということである。

象伝

象曰、風行天上小畜。君子以懿文徳。
象に曰く、風天上を行くは小畜なり。君子以て文徳を懿す。
しょうにいわく、かぜてんじょうをゆくはしょうちくなり。くんしもってぶんとくをよくす。

この卦は、風が天の上を吹き渡る形であり、小畜と名付ける。君子は、この小畜の卦にのっとって、温柔和平なる文徳を修めてその徳を善く美しくすることを勉めるのである。

この卦には、陰爻は六四の爻ただ一つであり、上下の五つの陽爻がそれに応じておるとみるのである。六四は陰爻をもって陰の位におり、位正しく、志正しいのである。そうして陰爻であるから柔和柔順の徳を持っておる。そうして上下の五つの陽爻の強い意志を、この六四が柔順の徳をもって和らげるのである。そこで、六四の志が行われ、亨ることを得るのである。

この卦の初九は、六四の陰爻の正しい志を知って、六四の止めるに従って、進むことを中止して、自分の正しい位に復って止まっておるのである。九二は、自分の同類であるところの初九や九三に引かれて、進むことを止めて、自分の位地に止まっており、中の徳を守っておるのである。九三は、剛強に過ぎる爻であり、進もうとするけれども、進むことができず、六四を怒って反目しておるのである。すなわち初九は自発的に止まるのであり、九二は同類に引かれて止まるのであり、九三は、六四に止められて進むことができず、怒るのである。六四は一点の私なき真心をもって上下の陽爻を止めるのであり、この爻がこの卦の成卦の主爻である。九五は六四の真心に感動し、六四を深く信任し、六四の言葉に従うところの天子である。これが主卦の主爻である。上九は、小畜の卦の終わりであり、小畜の道が成就したのであり、ここにおいて、六四の陰爻に対して、あまりに盛んになり過ぎないように戒める言葉を述べてああり。

風天小畜

初九。復自道。何其咎。吉。

初九。復自道。何其咎。吉。
初九。復ること道に自る。何ぞ其れ咎あらん、吉。
しょきゅう。かえることみちによる。なんぞそれとがあらん。きち。

道に従って帰るがよい。そうすれば、何の咎もない。結果は吉。

正しい道に由り従って、自分のおるべき位地に復って、じっとして止まっておるのである。何の咎められるべき過失もないのであり、吉にして福を得るのである。

初九は陽爻をもって陽の位におり、位正しき爻であり、すなわち志が正しいのである。そうして、上の六四の陰爻と相応じておる。六四は陰爻であるが、これが主となって上下の五つの陽爻をとどめ、陽爻を牽制するのである。初九は六四の正しいことを理解しておるのであり、六四が止めようとするのに順って、陽爻の持ち前の上へ進もう進もうとする考えを捨てて、自分の正しい位にかえってじっとしておるのである。

象伝

象曰、復自道、其義吉也。
象に曰く、復ること道によるとは、その義吉なり。
しょうにいわく、かえることみちによるとは、そのぎきちなり。

下卦は乾、天である。本来上にあるべきもの。昇り進むことが復ること。四の陰爻がそれをとどめようとする。初は「正」を得て、四と「応」じている。初が昇っていっても、四はとどめはしない。そこで正しい道にそって帰るという。吉である。

九二。牽復。吉。

九二。牽復。吉。
九二。牽きて復る。吉。
きゅうじ。ひきてかえる。きち。

むやみに進もうとせず、上下の同類のものと相牽き連れて、引っ返して自分の位地に復り、じっとして中庸の徳を守っておる。結果は吉。

九二は陽爻をもって陰の位におり、正しい位ではあない。けれども下の卦の中央におるので、中の徳をもっておる。むやみに進もうともせず、むやみに引っ込み思案にもならぬ中庸の徳を持っておるのである。下の初九は六四と相応じており、六四の正しい志を知っておるので、自分の位地に復ってじっとして止まっておる。上の九三は、六四のために止められて、車を解いて進まないのである。九二は、上には応爻がないので、六四から止められるのを待たず、上と下の二つの爻の同類を牽き連れて、引っ返して自分の位地に復って、じっとして中の徳を守っており、みだりに進もうとしないのである。そこで、吉にして福を得るのである。

象伝

象曰、牽復在中、亦不自失也。
象に曰く、牽いて復る中に在り、またみずから失わざるなり。
しょうにいわく、ひいてかえるちゅうにあり、またみずからうしなわざるなり。

九二は剛であり「中」にある。 上下の二爻と手を牽き連れて、引っ返して自分の本来の場所に帰り、中の徳を守っておる。初九と同じく、九二もまた自分を失わないものである。

九三。輿説輻。夫妻反目。

九三。輿説輻。夫妻反目。
九三。輿輻を説く。夫妻反目す。
きゅうさん。くるまとこばしりをとく。ふさいはんもくす。

馬車のスポークがばらばらになる。夫婦が反目するであろう。大変悪い判断。

九三はあまりに剛に過ぎるのであって、進んで行こうとするけれども、六四の陰爻に止められて、進んで行くことができず、たとえば車のとこばしりをはずして、車体と車輪とが離れてしまって、進んで行くことができないごとくである。そうして自分が進んで行くのを無理に止めたというので大いに怒って、九三の陽爻の夫と64の陰爻の妻とは互いに睨み合うのである。

象伝

象曰、夫妻反目、不能正室也。
象に曰く、夫妻反目すとは、室を正すこと能わざるなり。
しょうにいわく、ふさいはんもくすとは、しつをただすことあたわざるなり。

九三も昇ろうとする。しかし「中」を得ていない。六四の陰に接近しているが、三と四はもともと正しい配偶関係にいない。三が陽、四が陰で、身近く接しているところから、陰陽むつびあう。その結果、九三は六四につなぎとどめられて、昇り進むことはできない。あたかも馬車のスポークがばらばらになって動かないようなものである。しかし、九三は剛なので、その状態に満足せず、四と争うことになる。これが夫婦が反目する象である。自分の家庭を正しくできなかった九三自身の責任である。

六四。有孚。血去愓出。无咎。

六四。有孚。血去愓出。无咎。
六四。孚有り。血去り愓出づ。咎无し。
りくし。まことあり。ちさりおそれいづ。とがなし。

真心があれば、傷の出血も止まり、恐れもなくなる。結果として、咎はないであろう。

一点の私の心のなり真心を持っておるのであって、ついに上下の五つの陽爻を感動させて、傷つけられて血を流すようなこともなくなってしまい、憂え懼るべき危険もなくなってしまい、咎なく過失なきことを得るのである。

六四は、陰爻をもって陰の位におり、位が正しく、志が正しいのである。上の九五と陰陽相比しており、九五はこれを信任するのである。また、初九と相応じており、初九は六四の意に従って自分の位地にとどまっておる。この六四が小畜の卦の主爻である。一つの弱い陰爻をもって五つの強い陽爻に敵するのであるから、必ず傷つけられて血を流すことにもなるべきである。しかるに六四はこころの内に人を感動せしむるに足るだけの誠実なる真心を持っておるので、ついにそれらの陽爻を感動せしめるのである。

象伝

象曰、有孚、出、上合志也。
象に曰く、孚あり。愓れ出ずるは、上、志を合わせばなり。
しょうにいわく、まことあり。おそれいずるは、かみ、こころざしをあわせばなり。

六四は一陰でもって五陽をとどめようとする。当然傷つき懼れることがあるはず。しかし、柔順で「正」を得ている。巽は入であるから、この爻は己を虚しくして人を受け入れる性格。その上の二陽も助けてくれる。そこでまことありといい、愓れが去る。

九五。有孚攣如。富以其隣。

九五。有孚攣如。富以其隣。
九五。孚ありて攣如たり。富みて其の隣と以にす。
きゅうご。まことありてれんじょたり。とみてそのとなりとともにす。

真心があって、志を同じくする者と手を握り合う。自分の富を隣人と分かち合う。

九五は六四の真心に感動して、また内に充実したる真心をもって、これと志を合わせ、攣如として互いに手を取り合って相助けておるのである。そして九五は天子の位にあり、富は天下を領有しておるのであるが、その富を私せず、その隣、六四を始め、その他の臣下を愛撫して、その富を分かち与えるのである。

九五の爻は、陽爻であり、剛強である。陽の位におり、位は正しい。上の卦の真ん中にあり、中の徳を持っておる。九二とはともに陽爻であり、相応じていない。上の上九ともともに陽爻であり、相比していない。しかし、下の六四とは、陰爻と陽爻であり、相比しており、九五は位正しき六四の陰爻を信任しておる。

主爻には、二つの種類があり、一つは成卦の主爻であり、一つは主卦の主爻である。成卦の主爻というは、その卦を成すについての主爻であり、小畜の卦では、六四の爻である。主卦の主爻というは、ある卦がすでにできあがった後、そのできあがった卦の中の主宰者となるところの爻である。この小畜の卦においては、九五を主卦の主爻とする。

象伝

象曰、有孚攣如、不獨富也。
象に曰く、孚ありて攣如たりとは、独りは富まざるなり。
しょうにいわく、まことありてれんじょたりとは、ひとりはとまざるなり。

上卦の三爻が力を合わせて、下のが進んでくるのをとどめようとしている。九五は「中」にあり、尊位にある。自分だけ富もうとせずに隣人をもともに富ませる。

上九。既雨既処。尚徳載。婦貞厲。月幾望。君子征凶。

上九。既雨既処。尚徳載。婦貞厲。月幾望。君子征凶。
上九。既に雨ふり既に処る。徳を尚んで載つ。婦は貞なれども厲し。月望に幾し。君子も征けば凶。
じょうきゅう。すでにあめふりすでにとどまる。とくをたっとんでみつ。ふはていなれどもあやうし。つきぼうにちかし。くんしもゆけばきょう。

雨が降り、ここに止まる。自分の徳を高め、体中に満ち満ちる。女性が占ってこの爻を得た場合、動機が正しくても結果は危うい。月がようやく満月になろうとしている。この時、夫たる君子が外に向かって行動しようとすれば、凶である。

小畜の終わりにおいて、ようやく雲の真心が貫徹してついに雨が降った。そこで、もう雲を起こすに及ばないのであり、適当なところに止まっておるのである。臣下が君主を止めるのは、君主が正しい道を踏み外しなさることのないようにしたいと思う真心から起こるのであって、決して自分の権力を盛んにしようとするためではないのであるから、臣下はそれ以上に進もうとせず、その場所に止まっておるのである。しかし、卑しい身分のものが高い位地のものをとどめることは、たとえそれが正しい道に叶っていても、危険なる仕方である。陰があまりに盛んになって陽に対抗するようになってはよろしくない。君子は、月が満月にちかいような場合になって、なお進んで行くときは、凶にして禍を得ることとなる。

これは小畜の卦の終わりの爻であるので、これまでの五つの爻とは見方が変わっており、小畜の道が成就したについて戒の言葉を説いてある。

象伝

象曰、既雨既處、徳積載也。君子征凶、有所疑也。
象に曰く、既に雨ふり既に処る、徳積み載つるなり。君子征けば凶、疑うところあるなり。
しょうにいわく、すでにあめふりすでにおる、とくつみみつるなり。くんしゆけばきょう、うたがうところあるなり。

上九はとどめるの極点。すでに雨ふってやすらかにおる、それは陽が陰の徳を尊んで、陰の徳が積まれ満ちるまでに至らしめたことによる。陰が盛んになって陽に対抗しうるようになれば、君子もまた行くところあってはならない。凶を招く。君子としても、そのようなときは心配せねばならない。

▼▼最幸で豊かな人生を自分にもまわりにも贈ろう!▼▼
メールマガジンご登録【最幸の人生の贈り方】

朝日 一惠 【最幸の人生の贈り方】メールマガジンは、毎朝届きます。
◇────────────────◇ 
「最幸で豊かな人生を自分にもまわりにも贈ろう!」

「誰もがやりがいのある仕事で、生涯現役で働き、
みんなが豊かで幸せになる社会を創る!」  

「子どもたちがわくわくと大人になることを 楽しむ社会にする!」
◇────────────────◇  

2013年1月の発行以来一日も休むことなく配信しています。
無料で購読できます。
配信したメールから解除もできます。

易経
知恵の森
タイトルとURLをコピーしました